犬と爆破

1997年1月13日朝9時頃、渋谷駅前大交差点にてドーベルマンが爆発。初老の男性一人が腰の骨を折る重傷、軽傷者数名、死亡者は無し。目撃者の証言によると、QFRONTビル屋上付近から突然ドーベルマンが落下、地面に接触した直後に爆発した模様(渋谷駅内監視カメラからの映像とも一致)。ドーベルマンに何らかの爆発物が付けられていたものと思われる。警察はこれを悪質な傷害事件とみて捜査を開始した。

同月31日昼12時半頃、原宿駅前にてポメラニアンが爆発。ポメラニアンは身体にガムテープで爆弾を括りつけられた状態で駅舎屋根から落下、駆け寄って爆弾を外そうとした女子高生一名が爆発の直撃を受けて死亡、数名が重軽傷を負った。爆発時点でポメラニアンは生きており、数分駅舎付近を歩き回っていた様子が複数の目撃者によって確認されている。致死傷害及び動物虐待として、渋谷での事件との関係を含め警察は捜査を続行。

同年2月7日朝10時頃、新宿西口百貨店内でヨークシャーテリア、霞ヶ関・霞ヶ関ビルディング屋上で秋田犬がほぼ同時刻に爆発。ヨークシャーテリアは駅前ロータリーから現れ(正確な出現場所は特定出来ていない)百貨店内の人混みで爆発、死者4名を出す惨事となった。秋田犬は無人の霞ヶ関ビルディング屋上で爆発したのみで、死者・怪我人は無し。爆発音を聞いた社員が屋上に上がり、爆死体を発見して警察に通報した。被害状況から、爆弾には礫やガラス片が混ぜ込まれていたことが確認されている。

犬を爆発させる異常性や犯行場所の大胆さから、ニュース・ワイドショーでは爆発した犬に対する同情的なコメントと共に一連の事件が連日大々的に取り上げられる。早期解決を求める世論の声が高まり、警察はペットショップや愛犬家とも情報を共有して捜査を続けるが、爆発した犬の身元はいずれも特定できず。爆発させられた犬は肉片になって飛び散るため、犬の歯型や身体的な特徴を正確に鑑定出来ないことによる。

同年3月12日昼1時半頃、中野ブロードウェイ2階フロアで不審な小包を付けたコリーが横たわっているところを通行人が発見、警察に通報。警察は爆発物処理班を派遣、コリー及び小包の撤去・確保に成功する。小包の中身は爆弾であり、爆破テロが不発に終わったものと推測される。この事件によって警察は一連の事件に使われていたと思われる爆弾を入手、これを鑑定。犬の右足に付いた感圧スイッチが爆弾の着火と連動して起爆する構造になっており、感圧スイッチの動作の閾値がコリーの体重と一致していることから、コリーが右足に全体重をかけた時に起爆するものと考えられる。コリーは撤去された時点で既に死亡しており、なんらかの原因でコリーが死亡したため爆弾が起爆しなかったものと思われるが、コリーに目立った外傷は無く、死因は不明。なお、警察はブロードウェイ内の監視カメラ映像を検証したがコリーの出現場所は特定出来なかった。爆弾に使われていたパーツの一部は1996年4月頃に茨城県つくば市の電気機械専門店から盗難されたものと判明した。この盗難事件の犯人は見つかっていない。

同年3月30日夕方5時頃、吉祥寺・ハーモニカ横丁でダルメシアンが爆発。今までよりも威力の低い爆弾が使われていたため、ダルメシアンの爆死体は比較的損傷の少ない状態で現場に残っており、被害も軽傷者数名に留まった。警察による鑑定の結果、歯型・ぶち模様からダルメシアンは1994年11月頃に熊本県のペットショップで購入されたものと確認される。犯行から5日後、警察は爆発したダルメシアンの飼い主を特定。飼い主は三鷹に住むIT会社勤務の男性であり、家宅捜査により自宅から爆弾の材料や設計図が押収される。男性はダルメシアンの爆破が自らの犯行であることを認めるが、他一連の事件全てについては関与を否定。警察は組織的な犯行である可能性も考慮して会社員の身元を洗うが、押収された端末の通信記録や知人の証言からはそうした痕跡は確認出来なかった。男性が上京したのは同年2月頃であること、ダルメシアンの爆破には感圧スイッチではなく遠隔スイッチが用いられていたことを鑑みて、警察は特別警戒態勢を継続。

同年4月・5月は爆破事件は発生せず、1月以降3ヶ月に渡り続いていた各局の報道はほとんど無くなった。5月末を以て警察は警戒態勢を解除。

同年6月15日昼11時頃、銀座伊東屋前でラブラドールが爆発。重軽傷者数名、爆風で飛散したガラスが首に刺さり80代の女性が出血多量で死亡。捜査が再開されるが、依然として成果は上がらず。

同月20日午後3時頃、浅草でマルチーズ、恵比寿でマンチェスター、荻窪でボストンテリアがほぼ同時刻に爆発。爆弾の威力が今までのものよりも格段に高く、いずれも人通りの多い場所で爆発したことにより、のべ21人が死亡、200人超が重軽傷。

 

 

 

続かない

11/25 晴れ

こんばんは、大日本帝国憲法です。

駒場祭も終わり、あとは残り3週間を乗り切って冬休みを待つだけという時期です。冬休みは何も予定が無く、楽しみです。

さて、目下の思案は迫る進振りに関してです。理系東大生の進路についての一応の説明としては1・2年が駒場(教養)、3・4年が本郷(学部)というのがまあ一般的なそれなんですけど、実際のところは、2年夏学期が終わる頃には既に学部を内定させ2年冬学期には学部に入るのが通常のようです。つまり意外と時間がなく、事実、1年生向けの、最初の!進振りガイダンスが一週間後に開催されるのは最近教務課HPが更新した通りです。

今更言うまでもなく、東大は将来の決定を先延ばしに出来る進振り制度をウリにしており、受験当時進路が決まっていなかった僕はまたそれをアテにして幸いにも合格した経緯ですが、進振りが始まるまでの間に進路が決まらないとなると、せっかくのウリとアテもフイになってしまいます。実は、高校入学当初も僕の積極性の無さを危惧した母から「高校二年までに大まかな進路を決めろ」という旨の命令を受けたものの一向に決まらず、「決定を先延ばしに出来る東大に行くから、とりあえず許してちょ」という感じでなし崩し的にその命令を無効にしたような前科があります。今回はもう先延ばしに出来ない、ラストチャンスです。

現代日本において、人が年をとるということは万能細胞が分化するが如しです。生まれたときは何にでもなれたはずなのに、年齢と決定を重ねていくにつれて、出来ることはどんどん減っていきます。これを専門性の深化と見る向きもありますが、だからといって選択肢が加速度的に減っていることは疑う余地がありません。今日の決定を経て明日の僕とあなたは昨日よりも可能性の少ない人間となっていくのです。特に強く人生の方向性を決定し、選択肢を急激に減らすターニングイベントもいくつか存在し、それは受験であったり就職であったりしますが、進振りもまたその一つです。

僕は何もしたくないのです。すべからく何もやりたくない。学部に行きたくない、というか、大学に行きたくないし、だからといって社会にも出たくない。何もやりたくないのにいずれは何かをしなくてはいけなくて、その選択肢だけが着々と減っていくというのは、かなりの脅威です。

まあ、別にどうしようもないので、近いうちに進学相談室に行って相談してこようと思います。いくら大きな脅威が差し迫っているとしても、力なき僕としては粛々と頭を捻るしかありません。

おわりです。

論理と時間

少なくとも、我々が通常の認識で観測する物体の運動を支配するニュートン的古典力学において、時間tというパラメタは自明に存在するものですし、座標や速度が時間に依存する関数であることは感覚的にもなんら違和感の無いものです。

つまりは力学を記述する数学的な式が持つ、意味的な扱いについて時間という概念を導入することはまあ自然であるというわけですが、一方で、数学的な式それ自体が時間という概念に支配されていることはたぶん恐らくありません。坂道においたボールは時間が経つと勝手に転がっていくかもしれませんが、適当に提示した数式が時間が経って気付いた時には形が変わっている!!ということは無いですね。表式の示す意味的な事象ではなく、表式そのものが勝手に時間的にグニャグニャと変化していくことは、そういう性質を付与して立式しない限りは、たぶん、ないです。

これは論理や理論を記述する一形態としての数式だけではなく、ロジック全般について言えることだと思います。ロジックそのものは時間とは干渉しないものであり、その示す内容が(修正・訂正の類を含めなければ)勝手に変わることはないはずです。

が、論理をその発展という観点で見たときは、むしろそれは時間的な関数として捉えられなければならないのではないかということを最近思います。簡単に言うと、横軸に時間、縦軸に論理の発展・実現度合を取れば水平線ではないグラフが描けますよねという、それだけの話です。数千年前にはウホウホ言いながら木の実を数えるのが限界だった(知りませんけど)人類は、現在電子機器を開発して様々な演算を行えるようになっているわけでありますから、その「すごさ」「発展度合」を適当に数値化して直線上にプロットすれば、なんか時間に依存する関数のようなものが出来上がるはずです。

案外、見方によっては、時間的な進行が論理の実現に大きく関わっているのではないか?と僕は言いたいわけです。

例えば、あなたの人生における勉強とかはそうです。なにやらを習得するために延々と小学校、中学校、高校、大学と行く過程で洗練されていく脳みそは明らかに時間的に変化しており、論理を一般的なそれではなく「あなたが実現する論理」というスケールに絞れば、時間は無視出来ないポイントです。

もっと大袈裟なことを言えば、人類の発展もそうです。時間をかけて論理を習得する、更に時間をかけて新しい論理を習得する繰り返しで我々は発展してきたわけでありまして、その発展は時間に依存していると言えます。

別にここまでのお話が言語遊戯に過ぎないという自覚はありますし、だからどうというわけじゃあないですけれど、今まで論理は時間に依存せず即座に実現されるものであるというようなことを漠然と思っていたのですが、実際的なオーダーで見れば、むしろ時間的な熟成が論理の進行の本質になっているかもしれないんじゃないかとか、そんなことを思ったところにちょうどブログが有ったので書きました。

おわりです。

大日本帝国憲法、選挙に行く(行かない)

こんばんは、大日本帝国憲法です。

今月は僕の20回目の誕生日があります。すなわち成人ということで、酒だのタバコだのと、法的な権利も色々と変化を迎える年齢になります。

中でもとりわけホットな変化の内の一つは、やはり選挙権を持つようになるということだと思います。一応、僕も選挙権を得るにあたっては教養ある一国民として主体的に選挙に参加していきたいとは思っているのですが、考えれば考えるほど選挙に参加するということは困難であるような気がしてなりません。なぜかというと、あまりにも政治が難しいからです。

政治上の問題について自分で考えて決定が出来るようになるには膨大な労力を要します。例えば、消費税の増税ひとつを取ってみてもそうです。増税を支持するのかしないのかを決めるということは、増税によって起こる結果を予測して考えるということです。具体的には、現在の国の財政状況を確認し、増税した場合の用途の見積もりを立て、リスクリターンを算出した上でその結果を適切に評価するというプロセスが必要になります。

これを僕がやろうとしても、まず国の財政状況はどこでどの情報を見れば確認出来るのか知りませんし、見積もりを立てる能力も無いです。いわんや評価のようなことは全く出来ません。つまり、現状で僕は増税について支持・不支持を決定することが出来ません。

これは増税に限った話では無く、全ての政治上の話題について同じことが言えます。専門的な知識を必要とせずに評価出来る話題は一つもありません。原発問題のような、科学的な知識も必要になるような話題となるとなおさらです。努力して専門的な知識を身に付けようと思っても、それはあまり現実的ではありません。必要な知識が多すぎて時間が足りないからです。僕は理系学生なので普段は熱力学や情報科学と格闘していますが、これに加えて経済学、政治学を学ぶのは身が持ちません。別に僕が大学生でなくても、社会人が勤務しながらそれらを学ぶのは同様に困難だと思いますし、要求としてはやはり現実的ではありません。

というか、そもそも、極めて専門性の高い問題について素人からの意見を基盤に決定すること自体がおかしいような気もします。政治的な問題を扱うのは政治家の仕事であるわけで、情報の咀嚼だの評価だのはその道の専門家がやるべきではないでしょうか?個人的なことを言えば、僕は民主政治というのは愚形の統治形態で、専制政治が理想に近いと思っています。まあ、現在の日本は民主制なわけで、僕は民主制に依る選挙を如何にして生き抜くべきかという話をしているところなので、この話は脱線です。もうしません。

 

ここでひとつ、僕が考えた解決策を提示してみます。それは解析・評価を国のレベルではなく、個人のレベルで行ってみるということです。今まで話してきた政策の評価は、国の観点に立って良い政策かどうかを考えるという方法で行っていました。しかし、それは難しすぎて実行出来ないので、政策が国にとってプラスかマイナスか考えていたところを、この僕にとってプラスかマイナスか考えて評価してみるのはどうだろうというわけです。

こうしてみると、評価はだいぶ簡単になります。例えば増税に関しては、僕はお金をたくさん払うよりは少なく払う方がいいので、反対ということになります(増税に伴う副次的な効果は無数にあるでしょうが、僕は今精々バイトか小遣いくらいしか収入源の無い大学生なので、それらの収入が増税に多大な影響を受けるとは考えず、ひとまず無視します)。

これなら比較的簡単ですし、評価がブレません。全体としてみても、仮に国民全員がこの方法で選挙に参加したとすれば、個人個人が自分にとって良いか悪いかだけで考えているわけですから、個人ごとの幸福度の合計はただちに最大になります。

おっ、これはなかなか悪くない。ひょっとして、選挙って最初からこういうツールだったのか?

と思ったんですが、なんかこの発想って衆愚政治に繋がるらしいんですよね。例えば手元の百科事典マイペディア:衆愚政治の項目を見ると「浮動的な大衆が政治に参加して無方向・無政策な決定を行う政治」と書いてありますし、wikipediaに至っては、もっとはっきりと「有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す」とか書いてあります。どうやら、民主主義においては個々人のエゴイズムを追及してはいけないらしいです。もし皆が全体のことだけを考えた結果、一時的にでも不幸な個人が多くなった場合はそれは民主主義の本懐なのか?とか色々ツッコミたいことはたくさんあるんですけど、じゃあどうすりゃええねん、ということで、今回の話は結論が出ないままおわりです。

8/2 晴れ

こんばんは、大日本帝国憲法です。

8月に入って夏休みも本番、皆さんどうお過ごしでしょうか、僕は夏なのでプールに行ってきました。

プールというのは、千駄ヶ谷にある東京体育館であります。当初はその辺のプールに行こうと思っていたのですが、どこも立地が微妙に遠い。少なくとも徒歩圏内には暑い中歩いていけば着く頃には汗だくになっているんじゃないかしらん、という距離にしかプールがなく、諦めて他のプールに行くことにしました。千駄ヶ谷にはそれ程電車賃がかかるわけではありませんし、東京体育館は千駄ヶ谷から歩いて30秒くらいの立地ですから手頃なところだろう、という感じです。

さてさて、ずいぶん泳ぐのも久しぶりだと思い出してみると、高二の水泳の授業は生理を盾にする女生徒宜しく(特に何も盾にしていませんが)全て欠席していたのは懐かしいところです。高三では水泳の授業自体が無く、で、浪人で更に一年、都合高一以来、実に四年ぶりのプールでありました。

競技用の施設というだけあって(実際、女子高生のバスケ全国大会みたいなものを催していたので、プールに入る前に少し観戦しました)、プールは無骨な25mと50mだけ、年齢層が異様に高く、懸念していたガキ共が邪魔という事態は全くありませんでした。50mプールは最深部2.2m、泳げない奴はそのまま死ねという本気仕様。かといって25mの方は完全に老人専用のようになっていてどうにも行く雰囲気では無かったので、泣く泣く50mプールでスタートしました。

いや、これが、泳いでみると泳げるものです。三つ子の雀は百まで忘れずとかなんとか言いますが、あまりにも普通に泳げ過ぎて言うことがないです。最終的には10往復、1km泳いで帰ってきました。

 

帰宅後、8/1に発売されたゲームKiller is Deadをインストールしたところ、一切音声が出ないという不具合が。発売されて日が短いので頻発するタイプのバグかどうかは不明ですが、ひとまず角川ゲームスにふざけんなどうにかしろという旨のメールを送り付けたので、返信が帰ってくるまでは他のゲームをするかアニメでも借りてこようかと思います。

 

明日は地元埼玉の花火大会に行きます。花火大会とはいっても、祖母の家(高層マンション最上階)に行って窓から見える花火を見るだけ、正直今更花火を見て喜ぶ年でもありませんからそれ程興味はないのですが、手遅れになる前に祖母になるたけ顔を見せておくのが孫のつとめであろうという気持ちもあるわけです。

実家が埼玉である身としては、こうした実家帰り系のイベントも二時間やそこらで往復出来てしまうとなるとあまり風情が無いようにも感じられ、そろそろ小旅行というものへの好感度が上がってくる年齢になってきたのかもしれないと思うと、しみじみします。

 

早くもプール・花火と夏のイベントを一通りクリアしようかという勢いですが、何をしてもソロプレイか精々親戚関係が関の山で、友達が絡んでこないのは如何ともしがたいところであります、という自覚はあるのです。

それでは。

7/25 雨

こんばんは、大日本帝国憲法です。

いよいよ夏に割り当てられた試験も大部分が終わり、残すは情報だけ、自然と気分が明るくなってくる頃合いであります。

勉強は概ね問題なく進んでいるのですが、記号論理学の試験でやられました。得手不得手ということで言えば、僕の不得手はやさしい教科書が存在しない場合の自学の困難であり、それが露骨に出ました。記号論理学は教授が配布する(一人で読むには、僕にとって)難解なプリントが学習のベースであり、他の参考書を探そうとしても流儀が様々であるため目的としているであろうような参考書には辿り着けなかったという、そういうわけであります。

逆に、流石に一年受験勉強をしただけあってやさしい教科書が存在する科目については勉強法がわかっていますから、まあ易しい。ここまでの試験で言えば、ドイツ語、基礎統計あたりです。ところで、やさしい教科書というのは平易なという意味での易しいではなく、読み手が読みやすいという意味での優しい教科書であります。多少でも難解と思われる初出の単語にはいちいち定義付けをきっちり行っているとか、説明の省略が少ないとか、そういう感じですね。

 

結局、過去問やシケプリの類は一切利用していません。

どうしてもそれらに手を出せない理由は二つあって、一つは浪人時の後遺症、もう一つは家庭環境です。

浪人時の後遺症というのは、浪人時の精神状態を引き摺っているわけです。浪人生同士が勉強の話をするのは基本的に意味がないんですよ。意味がないというのは交流から何も生まれないという意味でありまして、それは何故かというとお互いに最近東大に落ちた程度の学力しかないからです。学力の低い者同士が勉強について検討しても、奇跡が起きて結束の力で賢くなることはまずないです。時間の無駄です。それで浪人中は同塾の仲間(敵)からの情報は基本的に聞かず、講師からの情報のみを信とするような勉強をしてきました。学生同士の相互学習扶助を振り分けた場合、これは前者に該当しますから、聞かない情報に分類されるわけであります。

とはいえそれは浪人中の話でして、東大には僕よりも賢い人がたくさんいるはずですから、前提が崩れています。賢い人たちのシケプリを利用すれば僕が引き摺られて賢くなることは十分有り得る話で、つまり、この原因は理が通っておらず、感情の域を出ません。

もう一つ、家庭環境です。これは浪人中に真面目に勉強するようになって実感したのですが、我が家の人間は全員が勉学に関して徹底的な個人主義者です。勉強をしなければならないときに一人で勉強をした人間の集まりであり、学生時代の話を聞いても基本的に勉強をした話しかしません。勉強をすれば結果を出せる人間が勉強をして結果を出した成れの果てがこの家というわけです(勉強しても結果を出せない人間もいるという議論は興味深いですし、最近僕が問題に感じていることでもあるのですが、今は重要では無いので脇によけます)。これは血筋としか言いようがありませんが、徒党を組む勉強となると、個人主義者のDNAが邪魔をするのです。

これが感情論かどうかは検討の余地があるところですが、論理を採択するのは根本的には感情ですし、倫理として認められないという漠然とした言い回しに潜む理は論理の理であるのかしらんとか、障害であることだけは間違いないわけです。

 

色々と述べたところでそれでも大学生活は残り3年と半、色々と考えは変わるものでありまして、冬学期の試験はどう乗り切っているのだろうかということは僕にとっても皆さんにとってもどうでもよいところであります。

それでは。