妄想について

二年前卒業文集に載せる予定だったやつです(当時時間が足りなくて書きあがらなかった)。

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私の親友は頭部がテレビだ。

 

中学一年で知り合い、中学から高校の六年間、卒業を間近に控えた今日まで、それなりに仲良くやってきた親友、その頭。つい最近、「彼の頭部がテレビである」ということに私は気付いた。気付いた私は苦悩した。「彼の頭部がテレビである」ことは眼前の事実だが、「彼の頭部がテレビになった」かどうかはわからなかった。つまり、「彼の頭部はテレビでは無かった」という記憶がはっきりと思い出せなかった。彼と私は仲が良かったはずだ。体育祭のテントであってないようなことを延々と話し合ったり、愚痴をこぼしながら文化祭の作業に勤しんだ記憶もはっきりとある。だが、私と話していた彼の顔が、金槌を操っていた彼の顔が、「テレビでは無かった」と言えるだろうか。そもそも、「彼の頭部はテレビかどうか」など、ふつう確認しなくてもわかることであるから、「彼の頭部はテレビでは無かった」という記憶が無いのは当然ではある。しかし、「彼の頭部はテレビでは無かった」から「彼の頭部はテレビかどうか」を確認しなかったのではなくて、「彼の頭部はテレビだった」が、それでもなお「彼の頭部はテレビかどうか」を確認しなかったのかもしれない。

 

私は考えるのをやめた。別に一人で考える必要は無いのだ。本人に聞けば良いだけだ、「君の頭部は何時からテレビなんだい?」と。

 

「そういうわけで、君の頭部は何時からテレビなんだい?」

 

私がその質問をしたのはある月曜日の放課後だった。HRの直後で、まだ教室からは人が散りきっておらず、クラスメイトが掃除をしている音や雑談に興じている声が聞こえた。今日は天気が良かった。青い空には白い雲がいくつか浮かび、強すぎない日差しが差し込んでいた。窓から涼しい風が吹き込み、カーテンを揺らした。騒がしい教室の中で、彼のモニターの中の顔は滑らかに動きながら答えた。

 

「何時から?何時からだろう。昨日かそれとも一年前か、ひょっとして、HRが終わった後からか。君は何か覚えているか?」

 

何度も考えたが、それがわからないのだ。質問した手前、即答するのも失礼に当たるような気がして、一応思い出すような顔を作って、悩むふりをしてみた。

 

「わかったかい?」

 

「何も。よくわからない。考えても無駄なような気がする」

 

「じゃあ、僕の名前は?」

 

「ナインティーン」

 

例え頭部がテレビであろうと、親友の名前を忘れる私ではない。ナインティーンは頷き、話し始めた。

 

「そう、僕の名前はナインティーンだ。君は僕の名前を知っている、一方、君は僕の誕生日を知らない。それは何故か?特に教えていないからだが、聞かれれば教えたさ、つまり、君が僕の誕生日を聞かなかった、ではそれは何故か。重要では無いからだ。僕について識別するという目的に関して、本質に近くないんだ。それと同じだ。君はいつから僕の頭部がテレビだったかを気にしているようだが、そんなことはどうだっていいじゃないか。真に君が聞くべきなのは何時から僕の頭部がテレビで有るかという問題では無く、何故今僕の頭部がテレビであるかという問題だ。君が本当に気にしているのは前者の問題では無い。ただ僕に違和感を感じた結果、的外れな質問が口を付いてしまっただけだ。本質に近い何故の問題が完全に解決されれば何時の問題も自然と解決する、だから、僕は僕の頭部がテレビである原因を話すべきで、君はそれを聞くべきなのだ」

 

ナインティーンはまくしたてる様に一方的に喋り、話を切った。はっきり言って、ナインティーンの指摘は正しいわけではなかった。最初に私が疑問を持ったそもそもの発端は、私の頭の中にある標準的人類のモデルに基づいた、恐らく人類であろうところのナインティーンの頭部は少なくとも出生時においては現在の状態では無かったであろうという推測であって、別にナインティーンがどうしてそうなったのかという原因を追求する探究心ではなかった。そもそもこの質問は突発的なそれではない。そういう、私が疑問を口にするという結果に到達するまでの過程については推測を誤っている。ただ、最終的には原因を検討する必要は確かにあるかもしれないし、何時を辿れるならばそれで構わない。

 

「わかった。続きを」

 

「僕には昔から、<その『昔』というのは頭がテレビになる前か後か?>とかいう無駄な詮索はやめてくれよ、夢があった。ゲーム再生機になる夢だ。簡単に言えば、君の疑問の答えは、僕がゲーム再生機になりたかったからだ」

 

話が妙な方向に進み始めた。今更ナインティーンが何を言おうと驚きはしないが、私が知りたかった原因はテレビを頭部に取り付ける直接の方法、つまり、どういう手術をした、とかあるいは呪いを受けた、とかそういう類の方法という意味での原因である。今ナインティーンが答えた動機という意味での原因は私の疑問と無関係では無いにせよ、本質を外していると言わざるをえない。やはりさっきのは勘違いだ。摘み取らなかった芽がつるを伸ばしている。

 

「知っているだろうが、僕は昔からゲーム好きだ。ずっと、一日中ゲームをして過ごしていたいと思っていた。家に引きこもって親の脛をかじりながらゲームをしていれば良いのだろうか、そういうわけにもいくまい、プラスを得るために膨大なマイナスを同時に獲得するようでは。普通に社会生活をして、しかもゲームをし続けらればいい。いちいち専用の再生機でゲームを再生するから、空間的にも時間的にもゲームをプレイすることが自由では無くなるんだ。僕自身がゲームを再生出来るようになれば、いつでもどこでもゲームをプレイ出来る」

 

そこまで語り終えたところで、私が怪訝な顔をしているのに気付いたのだろう、ナインティーンは大きく溜息を吐いた。

 

「少し話題を変えよう。何故飛行機が飛べるのか知っているかい?飛びたいと思っている鉄の塊で出来ているからだ」

 

「本気かい?」

 

「いや、冗談だ。半分はね」

 

「もう半分は?」

 

「やはり本気だ。物事にはそういう側面もある。意思の力」

 

話の真偽はともかく、彼が舵を切った会話の方向に少し安心した。飛行機の例、動機を直接の原因に転化する例を出したということは、ナインティーンは私が感じた不一致を理解している。私が内容の胡散臭さに対して怪訝な顔をしたのだと彼がやはり勘違いをしたのであれば、最早この会話で二重に重なったそれを修正するのは困難極まっただろう。

 

ナインティーンはテレビの側面をコンコン、と二度叩いた。すると、モニターからは彼の顔が消え、RPG調のゲーム画面が映し出された。

 

「こういうことさ」

 

左右のスピーカーからナインティーンの声がした。

 

「出力の問題だよ。普段は顔のチャンネルを出力して生活しているが、ただアウトプットしないだけで別のチャンネルでは同時にゲームをプレイしながら生活している、勿論今君と会話している最中もゲームをプレイしている。ちなみに、君と話している1分19秒の間にもレベルが1つ上がった。まだ序盤だからね、レベルの上がり方が早い」

 

「ゲームをプレイしている意識と、会話している意識が混線することは?」

 

「全く無い。そもそもが混線しないためのチャンネルであり、モニターだ」

 

再びナインティーンがテレビの側面を二度叩くと、画面は顔を表示するチャンネルに戻った、彼の説明によれば、だが。

 

「顔のチャンネルの機能は言葉や表情をアウトプットして他人とコミュニケーションを行うというところだ。ちなみに、君と会話が出来ている通り、どのチャンネルであろうと視覚や聴覚のインプットにも支障は全く無い」

 

「そう。便利なものだね……」

 

機能のことを話されても頭部がテレビで無い私にはよくわからない。ナインティーンは指で顔をかいた私の動作をネガティブなものと受け取ったらしく、少し申し訳なさそうな顔をして話を続けた。

 

「少し話が脱線してしまった。何故僕の頭部がテレビかという話だった。さっきも言ったが、結論はやはり、僕がゲーム再生機になる妄想をしていたからだ」

 

「妄想」

 

「そう。妄想。妄想は微に入って細に渡り、すればするほど面白い。ゲームを再生するためにはゲームディスクを挿入しなければならないね。腹のあたりに挿入口を設けるのがスマートだろう」

 

ナインティーンは着ている青いシャツの裾を捲って私に見せた。腹部にはゲームを挿入するためのスロットが取り付けられていた。

 

「そして僕はゲームを読み込むんだ。僕の中でディスクが回転しているのを感じる。キュルキュルキュル、という音が全身に響くだろう。少し振動するかもしれない。そして待ちに待ったオープニングが始まり……」

 

「わかった、わかった。つまりはそういう妄想が好きなんだね」

 

私は無理やり話を打ち切った。余りにも恍惚として語っているものだから、少し申し訳ないような気もしたが、放っておくととても話が終わりそうになかった。ナインティーンは自分の妄想に没頭していた。

 

「ああ、まあ、そうだ」

 

余韻が残っているのか、歯切れは悪かった。

 

「ま、とにかく妄想は楽しいってことさ。見たまえ」

 

ナインティーンがテレビの側面をやはり2回叩くとチャンネルが切り替わり、白い背景に黒い文字で以下の文章が表示された。

 

 

 

前提:妄想とは、独りよがりで省みない、非合理かつ訂正不能な非現実である。

 

ルール:妄想は力を持つ。

 

 

 

「それに、僕だけじゃない」

 

ナインティーンは両手を大きく広げて、周りを見るように促した。見渡してみると、教室中に完全な人間の形をしているものは一人もいなかった。顔から下が電車の車両の形をしている生徒、腹部から悪趣味なヤモリの足を生やしている生徒、体中がトランプで覆われている生徒。それぞれが特徴的で実に奇妙な造形をしていた。

 

「特に、CITYとか」

 

モニターの出力を顔を映すチャンネルに戻したナインティーンが、教室の隅でこちらに背中を向けて座っている生徒を指差した。彼のまわりだけがほんの少し薄暗く、グレーの霧を纏っているように見えたが、他におかしなところはなく、中肉中背、シャツを着たただの生徒という風で、奇奇怪怪な他の生徒に比べればかなりまともな外見に思えた。

 

「やあ、CITY」

 

ナインティーンが呼びかけると、CITYと呼ばれた生徒がゆっくりと振り向いた。彼の顔がちらりと見えたと思った瞬間、膨大な風景が私の五感を襲った。彼は打ち捨てられた廃墟街そのものだった。暗く陰鬱な路地の天井に水道や電線が無数に走っている。染みと汚れが何重にも重なった天井からは汚い廃液が滴り落ち、路面を濡らす。くすんだ竹で編まれたような扉が路地の左右にいくつか取り付いている。壁の割れ目から鼠が顔を出し、右から左へと走りぬけるが、人の気配は感じられない。決して彼がそういった風景のフィギュアを持っているとか、体が廃墟の形をしているわけではなかった。CITYは中肉中背の男子生徒であったが、それと同時に廃墟街の風景でもあり、私は彼の前に立ちながらも廃墟街の前に佇んでいた。

 

「何だ」

 

"CITY"はあからさまに不機嫌そうな声を出した。

 

「すまん、呼んだわけじゃないんだ」

 

ナインティーンが手をひらひらと振って投げやりに謝る。明らかに呼んでいただろうに。

 

「そうか」

 

ぶっきらぼうな性質なのか、そう答えただけでCITYは再び後ろを向いてしまった。廃墟街も同時に消え失せ、それを気に入っていたわけではないにしろ、一つの世界が消えたような気がして少し寂しい気持ちになった。

 

CITYは廃墟になる妄想が好きなんだろう。僕にはわからないが」

 

ナインティーンの不用意な発言をCITYが聞き咎めるのではないかと思ったが、ナインティーンが喋っている間にもCITYはやはり後ろを向いたまま教室を出て行ってしまっていた。ナインティーンの雑なコンタクトに無言で怒っていたのかもしれないし、ただ単にそろそろ帰りたくなっただけかもしれない。CITYが退出したのをいいことに、私は規格外な彼の有り様についてナインティーンに尋ねることにした。

 

「彼はどうも、クラスメイトの他の誰とも違うような妄想をしているように見えた」

 

「妄想しているものが違うだけだ。なりたいものの問題だ。僕がゲーム再生機になりたかったように、何かわかりやすい造型や機能を持った物質的なオブジェクトになる妄想は難しくない。しかし、機能そのものやこれといった形の無い概念であるとか、雰囲気、あるいはそれらの要素を色濃く持つオブジェクトとなると、妄想は難しい。さっき僕は、妄想はすればするほど面白い、と言ったが、逆に言えば細かく妄想出来なければ面白くないということでもある。現実に即した何かである必要は全く無いが、とにかく細部だ。匂い、舞う塵、汚れや染みの様子を克明に妄想するんだ」

 

「大変だね」

 

「大変とは違うよ。妄想は娯楽であって義務ではないんだから。妄想の原動力は何かを求める気持ちだ。そういう気持ちが大きければ大きい程、大規模かつ緻密な妄想が可能になる。つまるところ、彼は本当に廃墟が好きなんだろう」

 

そこまでナインティーンが話し終えた時、突然窓の外からボンという大きな音が聞こえた。間延びのしない、巨大な爆発音である。

 

「うわ」

 

かなり大きい。続いて地面が揺れた。震度で言うと2くらいだろう。地震ならば大したことは無いだろうが、地殻の奥深くに震源があるわけでは無いのだから、この微小な揺れは爆発による衝撃が如何に大きいものかを物語っていた。

 

「む、大きいな」

 

そう呟いたナインティーンは何かこの爆発について知っている、あるいは慣れているに間違いない。何故ならば、少なくとも爆発自体に対する驚愕を表現する限り「大きい」という反応は有り得ないからだ。原因ではなく規模について言及する反応は、原因に関心が無いことを意味するだろう。

 

「何が起きたんだ、ナインティーン」

 

無論私は爆発自体に対して驚いたのみであるから、何か知っている彼に聞くに限る。

 

「妄想が……いや、百聞は一見に如かずだ。見てみるといい。丁度この教室の窓からよく見えるよ」

 

私は窓の外に視線を向けた。一瞬何も見えないではないか、と思ったが、視線を下げると小さな、しかし確かに燃え盛る火球が見えた。火球の下には、少し丸みのある扁平な直方体に手足が生えた奇怪な胴体らしきものが付随している。

 

「よくわからないけど大変じゃないか、中庭の木に引火したら大事だ」

 

「もう遅い」

 

ナインティーンの言う通り、火球は既に木の根元に向かって転がっているところだった、いや、よく見ると不恰好な胴体がコンクリートの地面を這い、頭部の火球を伴って移動しているに過ぎない。火球を携えた謎のクリーチャーが木の根元に辿り着き、根元が燃え始めた途端、瞬く間に木全体が発火した、かと思うと、やはり瞬く間に今度は木全体が炭化していた。所々から煙を撒きながら、黒い木が崩れ落ちた。木の崩壊は一瞬で完結した。

 

「木が」

 

「木より火球だ」

 

木を焼却した火球に裂け目が入り、大きく二つの半球に裂けた。燃える半球は一方の端でだけ繋がっており、その様はまるで昔流行ったアーケードゲームに出てくるプレイキャラクターのようであった。落ちている餌を食い、敵からは逃げるしかない彼に比べると、今まさに木を焼き尽くしたクリーチャーは比較にならない凶悪さである。裂け目が口である点は同じなのか、丁度裂け目の向きがVの形になるように上を向くと、崩れ落ちてくる炭がその中に次々と放り込まれていった。

 

丸々木一本分の炭を中に取り込み、喰らい切った火球は最初に立てたのと同じような爆発音を上げて地面を揺るがし、今度は何倍も大きなサイズになった。今や直径1mはあるだろうか、大きさで言えば精精ジムボールくらいかもしれないが、何せ燃え盛る火球であるから、恐ろしいまでの威圧感がある。火球の下にある胴体部分も同様に巨大化しているのが見えた。胴体の大きさは火球の大きさに追随するらしい。登場時の約10倍の縮尺になったクリーチャーがおもむろに手足を伸ばして立ち上がると、校舎の二階程度の背丈になっているのがわかった。同時に、地面を這い回っている時はほとんど見えなかった全体像がはっきりと見えた。胴体部分はライターだった。巨大なプラスチック製のライターに手足が生え、火花を散らして着火する部分に火球が付着しているのだ。

 

「で、何なんだ、ナインティーン」

 

パワークッキーか、と横で呟いているナインティーンに改めて聞いた。クリーチャーが先刻木を焼き尽くしたように今にも校舎を焼き尽くすのではないかと思うと気が気ではなかった。恐らく、サイズと共に火力も大幅に上がっているだろう。ナインティーンや奇妙な姿のクラスメイト達がほとんど騒がないので冷静さを保ってはいるが、幾らなんでも事態が尋常では無く、周囲の平静さが逆に恐ろしいものに思えてきていた。

 

「やはり妄想だ」

 

ナインティーンは芝居がかった所作で指をパチンと鳴らしながら答えた。

 

「妄想が付きまとうのは何も人だけではない。物にだってその影響は出る。特に自然物よりも人工物、すなわちアーティファクトだ。何故かというと、アーティファクトは何か特定の目的の元に作られたものだからだ。妄想の方向性をベクトル、脚色をスカラーとすると、アーティファクトの場合は、存在自体が明確なベクトルを持っている。勿論それ自身が願ったわけではなく、他から与えられた方向性では有るが、そのアイデンティティはベクトルそのものだ。アーティファクトが脚色する力をほとんど持っていないにせよ、本質のベクトルに引き摺られて大きな妄想を帯びることはままあるのだ」

 

「じゃあ、あのライターの場合はどういう?」

 

「君はライターの使い方も知らないのか?ライターの本質は『着火』に決まっている。着火というベクトルに何かスカラーが加わって爆発に至った」

 

「『着火』を脚色するスカラーというのは」

 

「湿度が低かった、そういう乾燥条件とか、火気があったとか。聞いてみないことにはわからないが、火を増長させる外的要因なんてそんなもんだろう」

 

スカラーが蓄積して、着火というベクトルに干渉した結果、着火したいという妄想を持つに至った」

 

「人の妄想があそこまで大きな影響を及ぼすことはあまり無いが、アーティファクトの場合はベクトルが強烈だ。一度妄想を始めたアーティファクトはもう止まらない。衝撃は触媒となり、二次関数的にベクトルを脚色して、強力な妄想を作り出す」

 

「で、しかし、どうする。妄想を解決するのも、やはり妄想?」

 

私達が考察を深めている間に、ライターの怪物はどんどん大きさを増していた。今や背の高さは校舎を上回って余りある程になり、最初に生えていた人間の足に加えて、カマドウマのような気味の悪い昆虫系の節足を生やしている。校舎側ではなくグラウンド側に向かっていったのは幸いだが、火を吐くだけでは飽き足らず、節足を振り回して鉄棒や藤棚を破壊しにかかっているようにも見える。最早行動は着火を離れて単なる破壊になってきているような気もするが、破壊によって生成した瓦礫を燃料として供給することで着火を効率良く行うためなのかもしれないし、暴れるうちに着火という本質が破壊という本質へと変化してきているのかもしれない。あるいはただ単に動いていたら足が当たって物が壊れてしまった、という程度のことかもわからないが。

 

「妄想で彼を止めるのは難しいだろうね。人の妄想がアーティファクトの妄想に匹敵することは無い」

 

「その割には、皆、落ち着いているけど」

 

教室の様子は先程と変わらず異様であった。数人が窓の外を見て話の種にしているのが精精で、取り乱す者は一人もいないどころか、ライターが暴れまわる音が響いているというのに窓の外に目を向けずに熱心に勉強を続けている者すらいる。

 

「妄想が好きになると、どうも現実感が希薄になるんだ。たまにだけど、ひょっとしたら、死んだらずっと妄想していられるんじゃないかって思うことさえある」

 

「僕はまだ死にたくない。しかもライターに殺されるなんて」

 

「冗談だよ、半分はね。そして、クラスメイト諸君の自殺願望はともかく、主たる理由はじきに解決するとわかっているからだ」

 

もう半分は、と言いかけた時、化学実験室の辺りからグラウンドに五人の生徒が走っていくのが見えた。それぞれが長いホースを持っており、その先は校舎内へと繋がっているようだった。暴れるライターや、周囲に燃え移り猛る炎に比べると、走る生徒達は蟻のような大きさであった。ホースから水を撒いても、その影響力も蟻が噛み付いた程度としか思えない。

 

「彼らも自殺志願者?」

 

「とんでもない、救世主だよ」

 

「妄想で怪人ライターを倒して、我々を救ってくれるのか」

 

「別に、彼らは他人を救う妄想の保持者ではない。いや、これは言葉のあやで、そもそも他人のための妄想なんて有り得ないわけではあるが。誰かを救う妄想も君による君のための妄想だ。自分が何かを求める思いを原動力にしているのが妄想であり、妄想は利己的であることを免れない。仮に他人が何かを求める思いを原動力にしているかのような妄想が存在したとすれば、それは『自分が<他人が何かを求める思いを原動力にした妄想>を求める思いを原動力にした妄想』と言えよう」

 

「しかし、結果的に他人を救うことになるのは何も不自然なことではない」

 

「それはそうだ、しかも、妄想に限ったことでもない。だが、今回は違う。単なる現実が、妄想を打ち負かすのだ」

 

ホースを持った彼らは実は消火器具の妄想のマニアで、合体して消防車にでもなるのだろうか、という私の期待とは裏腹に、救世主たちは校舎側に向けて何か合図を送ると、ホースの先端についていた金具を捻り、ホースから放水を始めただけだった。圧倒的な火力の前にすぐに蒸発するかと思われた水は、全く掻き消されることなく力強くライターに向かっていった。ライターに水が届くと、水がかかった部分が青く変色して凍結したように動かなくなり、更に青く変色した面積に反比例してライターのサイズもみるみるうちに小さくなっていった。グラウンドのフェンスを踏みつける程にあったライターの背丈はすぐに武道館程度に縮んだ。

 

「妄想を妄想で制する必要は無い。妄想は現実に制される。と言うと、正確では無い。正確に言うと、妄想は現実に制されうる。微かではあるが根幹は確かな現実は、強烈ではあるが根幹はかよわい妄想を殲滅することが出来る。特に、アーティファクトの妄想はベクトルが定まっているが故に、逆方向のベクトルを当てるとすぐに0に収束してしまう。火に関しては、陰陽道曰く、相剋する木火土金水」

 

じきにライターは見えない程度のサイズになり、最期にいじらしく小さな煙を上げた後、遂に消滅した。

 

「なんだか、あっけないね」

 

「あっけなくない方が良かった?」

 

「いや。ところで、わざわざ言い直していたけど、現実に制されない妄想もあるの?」

 

「ある。まず妄想に対応する現実が存在しない場合。ただし、これは極めて困難だ。妄想がいくら独りよがりで省みないとしても、確固たる拠り所として現実に立脚しているという事実は認めざるをえない。例えば、現実からの逃避であるところの妄想は大いに歓迎されるべきだが、単に現実へのアンチテーゼであるところの妄想はアーティファクトのそれと同じくらい制しやすい。妄想のベクトルに対する逆ベクトルが余りにも露骨だからだ」

 

「それは自己矛盾。現実を元にして発生した妄想が、高々現実と衝突したくらいで消滅するはずが、もしくは、現実と衝突するはずがない。仮に君の言ったことが正しいならば、妄想はそもそも発生出来ない。テーゼとアンチテーゼは対消滅を起こさない。よしんば衝突によって変成が起こるとしても、やはりその二つがするのはアウフヘーベンだ。例えが混線しているんだ、アンチテーゼを持ち出すならば、ベクトルに対して逆ベクトルを持ち出してはならないし、ベクトルは即座に合成されるわけではない」

 

「理論的にはその通りだ。しかし、時間的変化というものがある。自己矛盾を起こして消滅する妄想は確かにあるんだ。宿主の理知、気概、欲望が変化し、妄想と現実の間の平衡定数が変化した場合、そしてその末に妄想が現実に素直に応対し始めた時、妄想は消滅しうる。これを進歩と見るべきか後退と見るべきかは状況と立場次第だし、妄想にとっての発展的解消であることもある。まあまあ、僕が言いたいのは、現実に立脚しない妄想が存在するならばそれは現実の干渉を受けないという思考実験だ」

 

「それならまあ、うん」

 

「次に、ああ、話題がズレてもうネタばらししてしまったような感があるな、つまり、もっと一般的には、妄想が現実との対応を頑なに拒否した時だ」

 

「それはもう、妄想の本質だろう。循環論法だ」

 

「まあね。表に対する裏、つまり実際を述べて、また今度は裏から表、理想を述べているだけ。だが、この世が現実である限り、実用と理論にまたがる運用は実用だ。どんな妄想にも消滅の可能性はある。そして君も気付いているだろうが、君の妄想も例外ではない。ここらが潮時だ」

 

ナインティーンは私の手を引き、教室を出てすぐのところにある水道まで連れて行った。水道の横には古びて曇った小さな鏡があり、彼と私がうつりこんだ。鏡にうつりこんだ私は一冊の本だった。

 

「これも、妄想に対する現実の一つってわけ」

 

「そうなる」

 

「一応聞くけど、これはアーティファクトとパラノイアどっち?」

 

「アーティファクト」

 

ナインティーンが肩をすくめた。本の本質は記録、そして再生である。現実は既に妄想を侵食しつつあった。水道のすぐ近くにあった社会科準備室の扉が罅割れ、飴色の、渦巻く空間が出現した。罅はどんどん広がり、間もなく崩れて教室のあった扉を飲み込んだ。もう扉の向こうの教室は完全に飴色の空間に飲み込まれてしまっただろう。私は、崩れ行く学校よりももっと別のことに大きな空虚感を感じていた。今日様々な知識を得た気でいたが、終始単なる自慰行為に過ぎなかったということに対してだ。記録の中を胡乱な目で歩き回っていただけだ。新たなものが何も存在しないということが、これ程までに虚しいとは。

 

「わかるさ、妄想が切れた時は虚しい。だが、他に考えることがあるだろう」

 

ナインティーンが口を開いている間に、遂に私と私を抱えたナインティーンの立つ床にまで罅が走り始めた。

 

「君の妄想はどこまでが影響範囲だったのかを」

 

「どこって、記録と再生だろう」

 

「我々の妄想が君の妄想の内部にあったのならば、我々のルールは君の妄想に規定されていたことになるはずだ。しかし、君の妄想は我々のルールに従っていた、そしてそのことに君は気付いていなかった。つまり……」

 

「いや、それは有り得ない。鶏も卵もいないところに鶏も卵も生まれるはずがない」

 

「しかし、鶏と卵は確かに存在しているのだ。生まれるはずが無いものが生まれて、一度生まれたそれは堂々と歩き出す。我々は新しいものを供給出来るわけではないが、君それ自体では……」

 

ナインティーンがそこまで言いかけたとき、足元の罅割れが遂に崩れ、私とナインティーンはゆっくりと飴色の空間に下降していった。

 

「また会おう。さよなら、卒業文集」

 

意外にも、心の底から名残惜しそうなナインティーンの声を最後に、私の妄想は収束した。

 

 

 

私は本棚の中にいた。

 

明るい部屋だった。天気が良かった。青い空には白い雲がいくつか浮かび、強すぎない日差しが差し込んでいた。窓から冷たくない程度の涼しい風が吹き込み、カーテンを揺らした。

 

私は自分の妄想について思い返した。妄想をしている最中は記録を新鮮に感じたのは、その時に限って記録が既知の主体では無く未知の客体だったからだろう。妄想を抜けた今となっては、CITYが教室を出て行った時に彼は怒っていたのかそれとも無頓着だったのか、思い出すのは造作も無い。ルールが先か、妄想が先かももういいだろう。

 

さて、私はこれからどうするべきか?ひとまず、妄想をすることにした。

 

 

 

(おわり)