インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)

原題で話題の例の本を読んだ。

いかにもラノベ然としたタイトルに反して実験的な内容を多々含んでおり、ライトノベルで有りながら全くライトではない。むしろ奇書・怪書の類で、賛否両論がある小説であることは間違いない(amazonのレビューによると賛1、否5)。

 

乙女の心はいつだってミステリアス

「……せんせいにはわるいうわさがあるのです。もちろんわたしはせんせいを信じています。けれど……」
人間は無作為にテキトウに動くのだ、と主張する文芸部顧問になった「せんせい」と、この世の全てが理屈通りに動いている、と信じて疑わない中学生の文学少女「比良坂れい」の2人が孤島を舞台に繰り広げる壮絶な頭脳戦と恋愛模様。

 

ヒロインにあらぬ誤解をかけられた「せんせい」がそれを晴らしていくコメディなのだろうかと思いきや、開始数ページでその推測こそが誤解であることがわかる。主人公「せんせい」は正真正銘の強姦魔であり、その癖ロマンチストな彼がヒロイン「比良坂れい」を理想的に強姦するべく、文芸部員を次々とやはり強姦しながら頭脳戦を繰り広げる物語なのだ。

「比良坂れい」の姉は物語開始時点で既に死んでおり、彼女の殺人事件ないしは自殺事件が物語中で主人公の強姦とも関わってくる大きなファクターなのだが、この事件の解釈がこの小説を難解たらしめている原因のひとつ、そして象徴と言えよう。訳あって記憶朧な「せんせい」が回想したフレームに新たな証言が加わって終始真相が二転三転し、結局真相は存在するのかどうかすらわからない。芥川龍之介「藪の中」の如しである。

序盤ではコメディ調に強姦を進めつつ物語の真相を解き明かそうという素振りで物語が進んでいくのだが、中盤以降「比良坂れい」が狂気を帯び始めたあたりからこの小説には正気の登場人物がいなくなる。「神の視点」などという便利なものはない、強姦魔の「せんせい」が最初から正気であろうはずもなかろうが、狂人が演技をして狂気に満ちた記憶や証言を語り始めれば最早手に入る真相など存在しないのである。

一番の見所である終章では文章そのものが露骨に物語に対してメタ的な立場をとり始める。我々は小説の登場人物であるから叙述ミステリや物理ミステリを行使出来る、などとメタ解釈を含んだ「解決」を数ページに渡って続けたと思えばそんなことあるわけが無いだろう現実を見ろと全否定、返したちゃぶ台を超能力で制御するような破綻したやりとりが延々と続く。序盤にバラ撒いた伏線を回収した途端に夢オチ扱いになり、全てを解決するデウス・エクス・マキナもノリツッコミの一発で追い返され、わざわざ提示された問題は一向に解決されない。そもそも問題とは何なのか、解決する必要は有るのか?

色々と解釈はある、というか解釈しか無いのだが、やはり読んだ以上は僕は僕として無責任に解釈の一つを示しておきたい。論理では無いので結論だけ書くと、この小説は「比良坂れい」の一途な恋愛物語なのだ。

 

オススメはしないが、僕はこの小説はとても面白かったと思う。作者の米倉先生は新人のようだから、次の作品に期待している。