7/25 雨

こんばんは、大日本帝国憲法です。

いよいよ夏に割り当てられた試験も大部分が終わり、残すは情報だけ、自然と気分が明るくなってくる頃合いであります。

勉強は概ね問題なく進んでいるのですが、記号論理学の試験でやられました。得手不得手ということで言えば、僕の不得手はやさしい教科書が存在しない場合の自学の困難であり、それが露骨に出ました。記号論理学は教授が配布する(一人で読むには、僕にとって)難解なプリントが学習のベースであり、他の参考書を探そうとしても流儀が様々であるため目的としているであろうような参考書には辿り着けなかったという、そういうわけであります。

逆に、流石に一年受験勉強をしただけあってやさしい教科書が存在する科目については勉強法がわかっていますから、まあ易しい。ここまでの試験で言えば、ドイツ語、基礎統計あたりです。ところで、やさしい教科書というのは平易なという意味での易しいではなく、読み手が読みやすいという意味での優しい教科書であります。多少でも難解と思われる初出の単語にはいちいち定義付けをきっちり行っているとか、説明の省略が少ないとか、そういう感じですね。

 

結局、過去問やシケプリの類は一切利用していません。

どうしてもそれらに手を出せない理由は二つあって、一つは浪人時の後遺症、もう一つは家庭環境です。

浪人時の後遺症というのは、浪人時の精神状態を引き摺っているわけです。浪人生同士が勉強の話をするのは基本的に意味がないんですよ。意味がないというのは交流から何も生まれないという意味でありまして、それは何故かというとお互いに最近東大に落ちた程度の学力しかないからです。学力の低い者同士が勉強について検討しても、奇跡が起きて結束の力で賢くなることはまずないです。時間の無駄です。それで浪人中は同塾の仲間(敵)からの情報は基本的に聞かず、講師からの情報のみを信とするような勉強をしてきました。学生同士の相互学習扶助を振り分けた場合、これは前者に該当しますから、聞かない情報に分類されるわけであります。

とはいえそれは浪人中の話でして、東大には僕よりも賢い人がたくさんいるはずですから、前提が崩れています。賢い人たちのシケプリを利用すれば僕が引き摺られて賢くなることは十分有り得る話で、つまり、この原因は理が通っておらず、感情の域を出ません。

もう一つ、家庭環境です。これは浪人中に真面目に勉強するようになって実感したのですが、我が家の人間は全員が勉学に関して徹底的な個人主義者です。勉強をしなければならないときに一人で勉強をした人間の集まりであり、学生時代の話を聞いても基本的に勉強をした話しかしません。勉強をすれば結果を出せる人間が勉強をして結果を出した成れの果てがこの家というわけです(勉強しても結果を出せない人間もいるという議論は興味深いですし、最近僕が問題に感じていることでもあるのですが、今は重要では無いので脇によけます)。これは血筋としか言いようがありませんが、徒党を組む勉強となると、個人主義者のDNAが邪魔をするのです。

これが感情論かどうかは検討の余地があるところですが、論理を採択するのは根本的には感情ですし、倫理として認められないという漠然とした言い回しに潜む理は論理の理であるのかしらんとか、障害であることだけは間違いないわけです。

 

色々と述べたところでそれでも大学生活は残り3年と半、色々と考えは変わるものでありまして、冬学期の試験はどう乗り切っているのだろうかということは僕にとっても皆さんにとってもどうでもよいところであります。

それでは。