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更新予定コンテンツ

大日本帝国憲法です。

更新をしないままだいぶ日にちが空いてしまいました。

毎週更新とか毎月更新とかいうことを公に掲げているわけではないですが、心の内で密かに思っている、このくらいの頻度で更新したいなあという目標も特に無いです。しかし、更新を試みる頻度自体は皆さんが仮に推測したとして推しはかるそれよりは確実に高く、要するにさあ更新するぞと文章を書き始めてもなかなか綺麗にまとまらずに頓挫する顛末であることが多いのです。更新予定として下書きのまま溜まっている記事タイトルと、概要は以下の通りです。

 

・世代間倫理と死生観

時間的にマクロなスケールの環境問題が取沙汰されるにあたって必ず「世代間倫理」という概念が顔を出しますが、この概念は行為者(あるいは、全人類)の死後について織り込んでいる点で死生観と密接に結びついていると言えるでしょう。世代間倫理の前提を成す死生観と、それに伴って共有された、共有されているであろう意識について考察します。

・暴力の正当性

例えば誰かと何かの交渉を行うとして、仮に完全な意思疎通が可能であったとしても、論理的な公理系を何一つ共有していなければ、それを締結することは不可能です。しかし、そのようなシチュエーションでもコミュニケーションを実現する方策は存在し、それはすなわち暴力です。無前提で出現し、究極的な汎用性をもってあらゆる状況において適用出来る暴力の正当性について、論理という立場から考察します。

・善悪の妥協点

根本的に善悪とは相対的なもので、原始的で純粋なコミュニケーションにおいてそれらは存在しないと考える立場から、もっとも妥当と思われる妥協点としての善悪の定義を再発見し、その問題点や解決方法を模索します。

・自然科学の逆進性

体系化されたい自然科学は公理から「正しいこと」を導き出して説明するという営み、ひいてはそれを可能にする公理の発見を目指しています。とはいえ、絶対的に正しいものは公理ではなく今目の前で起きている現象そのものであるということは誰の目にも明らかであり、これを言葉の綾で済ませることなく、この因果関係の逆転からどのような問題が生まれるのかについて考察します。

・解釈と事象の境界線

何かを説明するために概念を新設することは自然な営みですが、そうした導入された概念のうち、本当に存在していたものと本当は存在していなかったものは何なのか、そもそもそれらを分けることは可能なのかということを考察します。例えば、「熱いものに触ると熱い」という現象と「温度」という解釈の間にある溝は何なのかとか、何かしらの同一の物体が集まっている様としての「○○○」が存在したとして、それに対して「3」という概念は実在していたのかということを考えます。

・物語的な世界への侵入経路

エッセイやノンフィクションの小説に綴られた現実的な体験を現実でしたとして、そこに小説を読み進めているときと全く同様な感覚が発生するかというと、あまりしないと思います。これを単なる主客の違いとして説明することは可能ですが、例えば主体性を維持しているはずのゲームでも、ひたすらにリアルな表現が追い求められたからといって「これは現実である」という意味での現実感が深まる感じはあまり無いのは興味深いことです(GTAの最新作か、適当なFPSを起動して、ただゆっくり歩いてみてください)。創作物全般の物語的な感覚は何処から発生しているのか、それを解明すれば今ここにある現実から物語的な世界に触れることは可能なのかということを考えます。

 

以上です。概要すら完成していないコンテンツはもっとあります。

問題提起としての概要に比べれば回答は個人の意見でしかないのでオマケみたいなものですし、今書いて結構満足してしまったので、フルバージョンがリリースされることは無いと思いますが、こういうことを書こうと思っていましたよということで、おわりです。