一貫性について

一貫性とは、goo辞書曰く「始めから終わりまで同じ一つの方針・考えによっていること」であり、辞書を見る前に俺が書いた説明によれば「何か一つあるものが変わらないという性質」である。まあ、人によって理解が著しく異なるタイプの言葉ではない。誰に聞いても同じようなことを言う。

わざわざ一つの方針によるとか変わらないとか宣言するからには、逆に言うと、変わる可能性がある、可変性のものに対してのみ適用出来ることを意味する。例えば、1+1は誰が見ても2なので(頭のおかしい数学者は自明にはわからないらしいが常識的な範囲で)、数字の足し合わせなる行動に関して一貫性を伴うことは出来ない。
また、変化、つまりAがBに変わるというのは、最低でも対象が二つ、AとBがあって初めて成立する差分的な概念である。「同じ」だとか「不変」についても同様で、AがAと同じ、変わらないというのは、前のAと後のAがあるからわかることで、ただ一つのイベントにのみ注目してもそれが同じであるかどうかはわからない。つまり、不変という意味での一貫性は単一性を示す一方で、表れとしてはむしろ反復と結合する。同一の事象複数回生起するという構造が肝であるわけだ。
この構造の理解を踏まえると、数学的には一貫性はx=aに対応する。つまり、ある決定を空間上の点として、その決定が含む要素を数に分解したものを成分として考えると、ある軸xの成分が定数aに確定していることである。

少し具体的に書く。
ある日俺は午前1時くらいに腹が減ってコンビニに行った。店内を一回りして品揃えを見る。
・おにぎり(100円、150cal)
・アイス(100円、400cal)

・菓子パン(150円、150cal)

・惣菜パン(150円、150cal)
こんな感じだ。甘くないものが食べたい気分だったし、カロリーが気になるので、アイスはあまり食べる気がしない。菓子パンもちょっと。残るはおにぎりと惣菜パンだが、特にパンの方が良い理由も見つからないので、値段は安い方がいいだろう。その日俺はおにぎりを買って帰ることにした。
次の日もまた、同じくらいの時間に同じように腹が減ってきたので、同じコンビニに来た。今日は甘いものが食べたい気分である。最も甘いアイスは魅力的だが、しかし深夜に400calというのはあまりにも重すぎる。高い金額で安いカロリーの商品を買うというのは妙な気分だが、今日は菓子パンを買うことにしよう。
さて、この二日間の決定について、評価の軸は値段、甘さ、カロリーの3つがあった。
・一日目:おにぎり「値段:安い、甘さ:甘くない、カロリー:低い」
・二日目:菓子パン「値段:高い、甘さ:甘い、カロリー:低い」
という具合である。値段と甘さについてはふらふらと変わっている一方、カロリーについては一貫して低いものを選択しており、俺はカロリーが低いものを好む一貫性があると言える。評価をグラフの軸のようにみなせばカロリー=低い、数値化すれば「カロリーを好む度=0」とかそんな感じだ。こうして、決定は三次元空間上の点とみなせる。

複数の成分に関して一貫性を持っている場合はx=aかつy=bとなり、この連立方程式は三次元空間内では直線である。更に、成分が幅を持っている場合もある。つまり、評価が「これ」と確定しているわけではなく、「まあ、だいたいこのくらい」というアバウトなものである場合は、x=aではなくa≦x≦bとしてやればよい。この場合も方程式が満たす領域が可能な決定を支配する。
(一般には決定がN個の要素を持つときN次元空間上の点であり、許容される領域は超平面や超立体になる。)

ここまでは総武線が御茶ノ水から四ツ谷まで走るくらいの時間で考えたことで、大して重要ではなく、本題としては何故一貫性を持たねばならないのかということを俺は考えたいわけだが、理由ではなく結果であるならば、人が一貫性を求めるというのは心理学的に有名な話だ。例えば、試食を食った客が商品も買う(という例がwikipedia「一貫性の原理」の項目に載っていたが、これは一貫性というよりはトレードオフを愛する性質とか見栄を張りたがる性質に由来しているように感じる)ように、一貫性に従って行動しているということ自体が選択を肯定する。
たまたま最近読んだ「ファスト&スロー」とかいう本には脳の刹那的な判断を担当する部分が一貫性を愛していて、何故なら原初の時代を生き抜くにあたってそれが有効な方策だったからである(同じ季節に同じ場所に同じ実がなるという一貫性を発見して利用出来た猿は、それを理解出来なかった猿よりも生き残りやすいだろう)……というようなことが書かれていた。そういう本能的な、出生時から存在していた身も蓋も無い一面はあるだろうが、それは最初の最初、原因を辿る潮流の中では湧き出しの部分に相当するに過ぎない。湧き出した理由のカスケードが何事もなく個人の中に流れ落ち、ただちに一貫性を愛する性質として定着したようには思われず、流れは途中で滝壺のように溜まり、そこから新たな流れを作るかのように振る舞っているような気がする。大元は同じ場所だとしても、下って行けばいくつかに分岐して、それ自体説得力を持つ中継所、つまり段階の低い根拠が分岐先に存在する……ような気がする。
本当はここから先をダラダラ書いていたのだが、書いているうちに当たり前過ぎて馬鹿馬鹿しくなったので結論だけ言うと(中継所の話も放棄する。そこで述べて削除したのは要するに一貫性があると社会生活上利便性が高いというだけだ)、一貫性を愛する理由には人間の本能よりも更に高層のステージがあり、それは自然科学の再現性である。自然科学の再現性とは、完全に同じ条件で完全に同じ試行を行えば完全に同じ結果が出るという、物理学では無前提で適用される基本法則である。昨日投げたボールと明日投げるボールは同じように飛ぶ。誰でも知っている法則であり、明らかに一貫性の一種である。世界が自然科学の再現性という一貫性を持っているから世界の住人は逆に一貫性を世界と結び付け、愛するようになったというわけだ。
いかにも理系の人間らしい場所に着地してしまった。神の数式(笑)