悪意JUDGE

二十世紀が終わる年の秋、中央区地下鉄火災テロ事件の初公判が東京地方裁判所で行われた。

「朝の銀座線構内を火炎が蹂躙し……通勤通学中の多くの子供やサラリーマンが突然に未来を奪われ……救助を試みた勇敢な人間さえも次々に広がる炎やガスに……希望を散らされた三十六人の故人や数百人の負傷者たち……そして多くの遺族たちの悲しみ……万人にあったはずの希望が踏み躙られる絶望を思うと胸が張り裂ける思いで……」

両目から大粒の涙を流す銀髪の女性。彼女の悲痛な訴えと、孫を失った老婆がすすり泣く声だけが法廷に反響している。

「何の罪もない善良な市民が大勢殺され……何故このような理不尽な仕打ちを彼らが受けなければならないのか……この悪魔のような所業にわたくしは涙を禁じえず……」

女性は大袈裟な身振り手振りを交えて演説を続けるが、同調する者は一人もおらず、冷ややかな視線だけが彼女を取り囲んでいた。銀髪の女性がハンカチを取り出して涙を拭うと、傍聴席の男が突然立ち上がり、彼女に向けて罵声を浴びせた。それは聞くに堪えない侮辱の連続であったが、男を制止するものはおらず、それどころか彼に誘発された呟きがすぐに怒鳴り声の合唱へと変わった。

裁判長は女性と傍聴席双方に厳重な注意を与えたが、再び法定に静寂が戻るまでには一分近くを必要とした。弁護士が続く進行に従って立ち上がろうとしたとき、今まさに注意を受けた銀髪の女性が高々と挙手し、裁判長の注意に異を唱えてみせた。

「皆さんの動揺も当然です。大切な家族や友人を唐突なテロで失い、取り乱さずにいられる人間がどこにおりましょう」

またしても怒声の嵐が巻き起こる。今度は誰が火種でもなく、全員が同時に立ち上がり、彼女を罵り、糾弾した。異様な雰囲気の中、もはや尋常な進行は困難とみなした裁判長によって女性の強制退出が指示された。両脇を警備員に固められた彼女は大人しく出口通路へと連行され、去り際にこう呟いたのだった。

「確かに実行犯はわたくしですが……それはわたくしがこの惨事を悲しむことと何か関係があるのでしょうか?」

その一言で実に三度目の顰蹙を買う彼女こそが、ただ一人で銀座線を火の海に変えた張本人、ハーレー・スタンゲインだった。

彼女はテロに関わる容疑を全て認めており、あらゆる証拠が彼女の証言を肯定した。複数回に及ぶ精神鑑定でも異常は認められず、判決は全会一致で死刑。事件から二年後の春の終わりに絞首刑が執行され、怪人スタンゲインは散る桜と共にこの世を去った。

******

「蛆のお姉さん、朝ですよー」

みやすんの声で目覚め、最悪な朝を覚悟する。一年の計は元旦にありというが、それは一日のスパンにおいても同じことだ。最近は多少慣れてきたとはいえ、一日の始まりに見たくないものとしては、みやすんの眼球はぶっちぎりのワースト一位だった。

「君、いつまで居座る気?」

「まあまあ。お金はちゃんと入れてますし、そうピリピリしないでください」

居候のみやすんは家に金を入れるし、掃除も洗濯も毎日する。容姿も悪くない。感謝しこそすれ、恨む理由など欠片も見当たらない。だというのに、みやすんの眼球を一目見るだけで可愛い妹が一人増えたような気持ちは全く消え失せてしまい、ただどうにかしてこいつを視界から、可能ならこの世から抹消しなければならないという衝動が湧き上がってくるのだった。みやすんにとっては理不尽極まりないだろうが、こちらにとっても同じくらいだと思わせるほどに。

みやすんと目を合わせたくないので布団の中に籠っていると、横から走ってきた妹が肘打ちでみやすんのこめかみを強打した。ごつりという鈍い音が鳴り、みやすんは脳震盪で意識を失う。気の毒だが、正直ありがたい。いかに不愉快といえども、非のない相手に攻撃するほどの勇気かバイタリティか良心の欠落は自分にはなかった。妹には悪いが、自分の手は汚したくないのだ。

「お姉ちゃん、ゴキブリは嫌いだね?」

「嫌いだね」

「気が合うね!」

「出た?」

「いや……」

珍しく歯切れ悪く、あれよあれ、などと言いながら妹は両指を立ててくるくると回す。

「であるので、今日は姉妹で仲良くお出かけしようと思うんだよね」

「いいけど」

二人が転がり込んできて二週間が経つが、三人の生活は完全にバラバラだった。毎日、神社の管理と称して読書などをしている間、妹とみやすんが何をしているのかは全く知らない。朝起きたときには誰もいないこともあるし、誰かが眠っていることも、食事をしていることもある。曜日や時間ごとに決まった行動をしているかどうかさえも怪しいが、それについては自分も同じだ。本当は今日も神社の営業日だが、門だけ開けておけばいいだろう。

早速外向けの服に着替えていると、妹に注意された。曰く、神社装束を着用せよと。「神社に行くのか」と聞くと「似たような場所だ」と言うが、はっきりとは教えてくれない。神社以外の場所に装束で行くのは普通にかなり嫌だった。近所で目立ったりしないよう、普段から境内の外では装束を着ないようにしているというのに。懸命に抵抗したが、みやすんを倒したことを盾に粘られると無下にするわけにもいかず、装束の上にパーカーを羽織るという珍妙な格好で手打ちとなった。

******

十数年前、家族と共に車両事故に巻き込まれたが、妹である彼女の怪我は浅かった。姉とは違って事故現場付近の小さな病院に収容された彼女は一日足らずで目覚め、また、近隣の村の延焼が消し止められるまでには彼女が目覚めるまでと同じ時間を必要とした。

 

ただ、目に付いた。ごくごく僅かな黒い塊は、彼女の世界に定着したわけではなかった。それは「厄」だった。一般的には漠然と悪い影響をもたらすが、今目の前にあるものは放っておけば消える、かすり傷のような小さな厄だった。十数時間でそれは消滅し、自分が意識を取り戻すことを彼女は正しく確信していたし、わざわざそれに触れるリスクを背負うつもりもなかった。

しかし、思ったよりも暇だったのだ。回復までの時間は座って待つには長すぎた。意識の中で意識を失うわけにもいかず、ぼんやりと横たわっている中、視界に映るのは小さな黒い塊だけだったので、それを撫でて擦って遊ぶのも無理のないことだった。実際に遊び始めると、それは大して面白くないことがわかった。黒い塊はもちもちとしていて、指を食い込ませると形を変えるが、それだけだ。色や硬さが変わったりするわけではないし、粘土のように何かを形作るには密度と体積が足りず、すぐに飽きてしまった。

だから、ふと欠片を投げてみた。ほんの少し、消しカスくらいの断片を千切り取って、ぽいと放った。それは放物線を描いてぽとりと落ちると思ったが、実際の挙動は違った。形は変わらないのにも関わらず、羽が生えたように飛び立った。厄は彼女の世界を脱して外界へと羽ばたいていったのだ。それは空の彼方へ消えていくのではなく、恐らく適当な場所に定着して活動を再開するのだと直感したが、そういう行く末についてはあまり興味がなかった。

その遊びを始めてからしばらく経ち、彼女は厄の体積について違和感を覚え始めた。厄は少しずつ減ってきてはいるが、その減り具合と千切って投げる行為との間には相関が無いように思われたのだ。時間が経ちさえすれば何もしなくても厄は減っていくし、逆に、いくら厄の断片をバラ撒いたとしても時間経過による以上には減ることはなかった。この操作は分割ではなく複製なのではないかと彼女が気付いた頃には、厄はほとんど無くなりかけていた。

 

彼女が目を覚ましたのは土臭いベッドの上だった。右腕には包帯が巻かれていたが、それは骨折未満の軽傷であることがわかった。

「強運でしたね。蚊に刺された痕があったので、風土病の感染を懸念していたのですが、杞憂で済んだようです」

「媒介するのは病気だけじゃないと思いますけどね」

医者は一瞬困惑したが、すぐに笑顔を見せた。

「ともあれ、君が無事で良かった」

厄を撒き散らされた村の皆さんにとっては、死んだ方が良かっただろうが。

******

目的地に着き、大きく古い扉を開けると、並んだ木製の長椅子の一つに座っていた女性がこちらを向いた。それは修道服を着たシスターだった。いかにも大人っぽい落ち着いた雰囲気の女性で、老いているわけでは全く無いが、多分いくつか年上だろう。

「お久しぶりです」

シスターは艶のある声で妹の姓を呼んだ。それは当然ながら姉の姓でもあるため、ちょっとした居心地の悪さを感じる。

「やーやー、シスター。こちら、姉の」

「どうも」

妹の適当な紹介に応じて軽く頭を下げると、自分が着ている服が嫌でも目に入ってきた。荘厳な教会の中で赤白の神社装束というのは、どうしようもなく浮いているのがわかる。ただちに問題があるということはないだろうが、とても落ち着かない。

「どうぞ、こちらへ」

シスターは装束を一瞥しただけで何事もないように微笑み、奥の机へと先導した。妹とは面識があるようなので、装飾の異常性は妹のそれとして処理してくれたことを祈りたい。妹はこれが面白いと思ってわざわざ指定してきたのだろうが、私は妹ほどエキセントリックな感性をしていないのだ。次からは妹の無理の優先度を大きく下げることに決めた。

シスターは机の奥側に腰掛け、妹と二人で面談のように向かい合う形になる。シスターは改まった口調で口を開いた。

「さて、何か困っていることはありませんか? どんな小さなことでも構いません。あなたがより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません」

「……」

人間なのだから、悩みが無いとは言わない。いま装束を着ていることとか、みやすんの目が不快なこととか、最近パチスロの負けが混んでいることとか、言おうと思えばいくらでもある。しかし、今会った程度の他人にわざわざ相談したいことはあまりない。質問に対しての回答はイエスだが、実際に言うべきことは何も無い。

そしてそんなことを聞かれると、妹がわざわざ自分をここに連れてきた理由が気になってきてしまう。自分はそんなに思いつめたような表情をしていたのだろうか。何としても教会に連れて行ってシスターのカウンセリングを受けさせなければいけないと妹に感じさせるような素振りをしていたとはとても思われないのだが、精神病のサインは本人よりも身内の方が気付きやすいという話も聞く。

「特に、何か不思議なものが視えて悩まされているとかは」

「結構です」

今度は沈黙ではなく、拒絶が口を突いた。

仮に蛆についてシスターが何か知らされていたとして、その存在の有無ではなく是非を踏み込まれるというのは少々良い気分がしない。視覚で共有している人間が多少現れたとしても、まだまだプライベートな案件だ。例えば、押せば永久に蛆虫を排除できるボタンがあったとして、それを押すかどうかは簡単な決断ではない。不愉快であると言いながらも、それが自分を構成する要素の実に重大な部分であるというのは間違いなく、少なくとも他人に口出しされて決めるような事柄ではない。

「失礼、出過ぎたことを申し上げたようですね。職業柄と申しますか、初めて人に会うと、どうしても何か悩みを解決してあげたい、そのためならどんな協力も惜しまない……という気持ちになってしまうのです。たとえ懺悔室の外でも、ええ。ですから、不躾な質問をしてしまったのも全くわたくしの性格によるものでして、決して妹さんの相談でなどということもありませんので……御安心くださいませ」

シスターは言葉を選びながら軽く頭を下げて詫びた。

「いえ、別に」

「本当に聞きたかったのは……」

シスターは机に積まれた厚い書物を捲ってパラパラと指で弾いた。半分ほど繰ったとき、ページの間から茶色い何かがいくつか飛び出した。その動きはとても素早かったので、机の端から降り立って、足元で動きを止めるまでは気付かなかった……それがゴキブリだということに。

今更、あまり驚きはしない。見た目にはちゃんとしたシスターから蟲が湧くというのは意外だが、意外というのであればその程度のことだ。念のために足で踏み潰して確認しようとすると、ゴキブリはするりと避けて行ってしまった。まあ、本の間から湧いてくるという時点で現世のものでないことは間違いない。

「あまり驚かないのですね」

「そういうこともあるんでしょう」

一応そうした方がフェアかと思い、装束の裾を持ち上げて軽く振ると、机の上に蛆が二匹転がり出てきた。シスターはそれを目で追ったが、驚く様子はなかった。

「私のことをどう思いましたか?」

「人の良さそうなシスターです」

「ゴキブリのことはどう思いましたか?」

「あまり愉快な蟲ではないですが、今更でしょう」

「ゴキブリが人間に対して果たしている役割は?」

「……清掃を促すとか。ゴキブリが湧いたのを見て掃除を始めるようなことはあると思います」

「ふむふむ。ところで、うちの教会は人手不足なのですが……」

シスターの言動は風に揺れる凧のようにふらふらし始めた。一問一答としては機能しているが、コンテキストというか、全体の文脈として何が言いたいのかよくわからない。どうもゴキブリが湧いてから、シスターの落ち着きが一部失われたような気がする。『視えるやつにろくなやつはいない』とはみやすんの弁だが、このシスターもケーススタディの一事例となってしまうのか。

「ま、バイトだよね」

妹の合いの手が入り、シスターが頷く。

「……」

バイトを求めているということは、今までの質問は採用面接だったのかもしれない。質問の後に勧誘が来たことを考えると面接はパスしたのだろうが、一応既に定職には就いているし、問題が多すぎる。

「私は神主です」

「兼業で構いません。信条はあまり気にしておりませんので」

「お金には困っていません」

「まあ、あって困るものでもないでしょう。条件は良くします」

「平日は管理の仕事をしていますが」

「うーん、週一でもいいのですけれど」

シスターは先程とは打って変わって食い下がった。手に職がある異宗教の人間を熱心にバイトに誘うというのはあまり感心な態度とは思えないが、蟲が湧くということはそれ程大きなプラス査定になるのだろうか。

「失礼、本当のことを言うと、最初はあまりお誘いするつもりはなかったんですけれど、会ってみて考えが変わりました。わたくし、あなたには是非教会に来てほしいですわ」

「はあ」

どうしても働いてほしいと言われたところで、こちらもどうしても働く気はしない。お金はいくらあっても困らないというのは事実だが、対価として差し出す無駄な時間もいくらあっても困らない。その気になれば今日のサボりと同じ要領でバイトの勤務時間くらいは捻出できるだろうが、結局、そうまでして働きたくないのだ。

断りの言葉を探していると、バシン、という音が不意に頭上から鳴った。

「……?」

反射的に上を見ると、蜘蛛が一匹、尻から糸を出してツーと垂れ下がってきていた。バシンバシンと音が鳴るたびに蜘蛛は二次関数的に増えていき、すぐに十数匹の蜘蛛が群れになって降下してきた。蜘蛛の糸は全て天井にある一枚のステンドグラスに繋がっており、そこには腕を振り上げる人影がぼんやりと映っていた。人影が腕を振り下ろすたびに打撃音が鳴り、ステンドグラスに少しずつ罅が入っていく。

「これは一般業務の範疇ですか?」

「ややレギュラー寄りのイレギュラーですわ」

横で妹が溜息を吐いたとき、一際大きな音を立ててステンドグラスが砕け散り、蜘蛛に混じって何者かが叫びながら飛び降りてきた。聞こえる声は幼い女の子のもので、身体も大きくない。たのもー、とか何とか、道場破りのようなことを言っているのが聞こえた。

彼女の正体や目的はともかく、とりあえず教会の天井は非常に高いという事実がある。少なく見積もっても五メートル、建物三階以上の高さだ。死にはしないだろうが、打撲や骨折は免れない。衝突すれば下にいる自分たちも危ないし、飛び散るステンドグラスも危険だ……と考えて腰を浮かせたが、体感で起こる時間を過ぎても、実際にそれが訪れることはなかった。

「……?」

改めて上方を見ると、飛び降りから三秒以上は経過しているというのに、謎の女の子はまだ十分高いところにいた。今は天井から床までの四分の一程度を通過したあたりで、ただただゆっくりと落ちてきている。よく見れば宙を舞うガラスや粉塵の動きも遅く、断片の一つ一つがはっきりと見えた。走馬燈的なものかと思って焦ったが、机の上を這うゴキブリの動きはいつも通り早かった。

「この悪党、今日という今日は……」

女の子は空中で何やら口上を述べていた。逆光で顔はよく見えないが、ステンドグラスを破壊したのであろうバットを両手で振り上げている。彼女の落ちてくる速度とは違って、彼女の口の動きや聞こえる声は普通に見えて聞こえる普通の速さのものだ。落下だけなのだ。自由落下現象だけが、蜘蛛が糸の張力に支えられて降下するように、獲物が蜘蛛の巣に絡めとられているかのように、なんらかの抵抗力が存在する流れの中を歩んでいた。

「ま、ガキのおもりっていうのも教会らしくはあるよね」

妹がステンドグラスの破片の一つを空中から掴み取った。その先端を指に当てて軽く動かすと、鋭いガラスが皮膚を裂き、赤いラインが刻まれた。血が滲んでくるかと思いきや、じわりと肌に浮いてきたのは黒いぼうふらだった。それらは次々に羽化し、空中に溢れ出して漂う。その様子はまるで、質の悪い蝋燭から吹き出る黒煙のようだった。

蚊の群れがふんわりと上方に広がり、ステンドグラスの欠片を覆うと、それはパリンと砕け散った。その破壊は遍在かつ再三で、黒い波が触れさえすれば、無数にあるステンドグラスのいずれも、そして一度割れた断片も再び、内側から罅が溢れて砕けた。徹底的に粉砕されたステンドグラスは、太陽光を反射して昼の粉雪のように宙を舞った。侵入者の女の子は黒い蟲と白い煌きの中を降下し、今や地面から一メートルというところに来ていた。

「覚悟しなさい!」

勇ましい宣戦布告と共に、女の子は頭の上に掲げていたバットをシスターに向かって振り下ろした。蜘蛛や破片とは異なり、バットは凶器として適切なスピードを伴って迫る。シスターはふらりと立ち上がると、右手を伸ばして軽くバットに触れた。

そこからのシスターの動きは、それはもう見事なものだった。

女の子の手からバットを片手で器用に抜き取り、空中でくるりと半回転させる。上から下へ振り下ろす軌道が下から上へと打ち上げる軌道へと変わり、殴りかかる勢いだけを保存して、バットの先端が女の子の顎を捉えた。そのアッパーカットの強烈さといったら、女の子の小さな身体を重力に逆らって軽く宙に浮かせるほどだった。

シスターの反撃はまだ終わらない。バットを肩に担ぐと、腰を捻って片足を軽く持ち上げる。バットの先端を振り子のように揺らしてタイミングを取り、床を踏みしめ、宙に浮いた女の子目がけて……

フルスイング!

気持ち良さそうにバットを振りぬいたシスターの姿とは対照的に、横殴りされた哀れな女の子の頭からは何かが潰れたような、砕けたような嫌な音が響いた。木製のバットは真っ二つに折れて宙を舞い、床に落ちてカランと渇いた音を立てた。同時に、女の子はベチャリという音を立てて地面にうつ伏せに落下した。

「今、彼女に必要なのは頭を冷やすことです。彼女がより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません……」

シスターは折れたバットの先で十字を切った。

******

『……それは偶然でした。わたくしはいつも通り職場へと車でゆく予定だったのですが、その日に限っては家の前の道路が工事で封鎖されていました。もう夏が始まって日差しが強くなってきていて、歩いていくにはだいぶ暑かったので、末広町から神田までの一駅の距離ではありますが、わたくしは電車に乗ることに決めました。駅に着いたとき、わたくしは大いに驚きました。人の多さについてもそうでしたが、最もわたくしを驚かせたのは彼らの表情でした。人々は構内に密集していて、何十何百という顔を同時に見ているというのに、何か感情らしいものを持っている顔はただの一つもありませんでした。彼らの顔からは、遺伝によって定まった人間のベースとしての相貌、それ以上の情報は何ら読み取れませんでした。無、無なのです。わたくしは大いに困惑し、そういったことにならざるをえないような事件が、それが何かと問われると想像も付かないのですが、とにかく何かがわたくしの来る前に起こっていたのかもしれないと思いました。そう思ったので、わたくしは翌日も翌々日も同じ時間にその駅を利用してみましたが、彼らの表情は何も変わりませんでした。観察を始めてから四日目の朝、彼らに続いて満員電車に乗り込んだとき、唐突にわたくしの心は決まりました。彼らを救わなければならない、そう決意したのです。食に飢えた子供におにぎりを与えるように、表情を失った彼らには劇的な物語を与えなければなりません。淡々と歩いている彼らが、表情豊かに何かを考え、互いに議論し、自ら行動する姿を思い描くと、わたくしにはそれはとても素晴らしいことに思えました。わたくしは彼らに素敵な人生を提供することに決めたのです。……しかし、そのためには、彼らに与えられる物語は強烈で、とても強烈で、彼らの人生の大きな位置を占めるものでなくてはなりません。何をもってしても疑うことができない、彼らが行動しなければもうどうにもならないという差し迫る現実を与えなければ、きっと彼らはまたホワイトノイズの中に戻っていってしまうでしょう。更に言えば、個人個人が思いを巡らせずにはいられないだけではなく、社会全体がそれに向かって邁進するようなものが理想的でありましょう。結局のところ、劇的かつ、可能な限り多くの人を巻き込み、社会を揺るがすという、そういった出来事を実現すれば彼らは幸せになれるのです。……かような理由で、わたくしは銀座線の構内に火炎を撒くことを決意致しました。なるべく多くの方々に体験して頂くことが目標の一つとなるわけではありますが、その人自身に業火が迫るのが一番良いとも限らず、例えばその人の職場や家族であるとか、精神的に近い距離に危機を感じてもらうことができれば、同じような衝撃が見込めると考えます。翻って、人を殺すことはあまり本意ではありません。人は死んでしまえばそれ以上いかなる体験もできなくなるわけですから、それは本末転倒というものです。しかし、死者本人ではなく周辺の人々については、彼の死は最もドラマチックな経験の一つとなることは間違いなく、これは大きなジレンマではありますが……』

そこまで読み進んだところで、視界の端に赤い何かが映ったので、一端本を下げた。

歩きながら本を読むときのコツとして、視線を下げるのではなく本の方を持ち上げて歩くということがある。周りに気を配ることと文章に目を通すことを両立させ、不要な事故を回避できるのだ。工夫をしたところで行儀が悪いとわかってはいるが、今歩いているのは人気のない住宅地だし、このくらいは許されるだろう。

目の前で赤く見えたのは神社の鳥居の根元だった。塗装はところどころ剥げており、風情があるとみるか、廃れているとみるかは際どいところだ。しかし、神社の中までよく見れば、大木の下に落ち葉が積もっているようなこともなく、それなりに手入れがされていることが伺える。鳥居にしても、強く主張してこないが故に閑静な住宅地に馴染んでいるような面もあり、常に煌びやかにしていればいいというものでもないのかもしれない。

そんな鳥居を横目に通り過ぎようとした間際、神社の屋根の一部を白いたくさんの何かが覆っているのが見えた。小石にしては場所がおかしいし、鳥にしては小さすぎる。まるで現実世界がドット落ちしたような不自然さだった。少し揺れているようにも見えるが、その揺らぎの方向はまちまちで、風に吹かれているわけではない。

気にはなるが、わざわざ見に行くほどではない。埃か布か何かだろうと決め付けて歩みを再開し、再び読みかけの本を開いた。

『ハーレー・スタンゲイン 秘蔵獄中日誌』、それがこの本のタイトルだった。怪しい題名の通り、表裏のどこにもバーコードが付いていない。つまり商業ルートには乗っておらず、誰かが勝手に製本して流通させた地下本だ。表紙には黒い背景にゴシック体が踊っており、いかにも個人製作という趣きを感じさせる。出版社の表記や奥付は存在しないが、作者についてだけは『著:ハーレー・スタンゲイン』と大きく明記されていた。こんな本が世の中に出回り、ネットオークションではそれなりの値が付くほどの品になっているのは、「作者」が人気者だからに他ならない。単独で火災テロを起こし数十人を殺害した、しかし物腰の柔らかい穏やかな銀髪の美人という稀有なキャラクター性を持ったハーレー・スタンゲインは、死後もサブカルチャーを中心にカルト的な人気を得ている犯罪者だった。

この本はそんな故人が刑務所に遺した極秘手稿という触れ込みであったが、信憑性については眉唾ものだった。手記の存在や内容に関して、処刑された彼女自身や刑務所からの公式ないし非公式なアナウンスは特に無く、この本がそうであると自称しているに過ぎない。誰かの憶測か創作の産物と考えるのがまともな評価だが、こういうカルティックでアングラなものに限っては胡散臭ければ胡散臭いほど却って本物臭く映る節があり、結果として、それなりの信頼を得ているかのような扱いで取引されているというわけだ。不思議な話だが、『却って』などという単語が存在するあたり、大抵の対立概念はあるスレッショルドを超えると反転する性質を持っているのかもしれない。

適度に周囲に気を配りながら読み進めているうちに、目的地に到着した。先程の神社と同じくらい廃れた、見るところのないアパート。目指す部屋番号まではわからなかったのだが、ナメクジが這っている扉をすぐに見つけた。階段を昇り、部屋の呼び鈴を鳴らす。

「みやすーん、開けてくれーっす」

バタバタという足音のあと、目的の人物が顔を出した。

「ああ、ぴよちゃん。よくここがわかりましたね」

「この本、返しに来たんすけど。まだ読み終わってないんで、しばらく上がって読んでてもいっすか?」

「どうぞどうぞー。私の家ではないですけどね」

三角巾を被ったみやすんは、はたきで部屋の奥を指し示した。

「お邪魔ーっす」

適当にその辺の椅子に座り、読書を再開した。椅子の座面にはナメクジが這っていたが、どうせ感触はないのであまり気にならない。

『……ただ、わたくしの最大の懸念は、時間の経過と共に彼らに与えた物語が風化してしまうことでした。仮にわたくしの試みが成功をおさめ、いかに大きなインパクトを与えたとしても、彼らが考え選択した結果が、むしろ劇的な物語を封印する要塞化に向かうのは目に見えていることです。もっとも、それ自体は悲観すべきことではありません。堅牢な要塞に覆われた平穏な日常があるからこそ、破壊的な行為が劇的な物語として機能するのです。強化された要塞を打ち崩すような、更新された衝撃を無限に与え続けることさえ出来れば何ら問題はないのですが、しかし、これはわたくしには出来ません。何故なら、物語のための犠牲として三十六人を殺害したわたくしは死刑が確定しており、間もなくこの世を去るからです。誰かにわたくしの遺志を伝えられればよいのですが、今わたくしが話しかけることが出来るのは、刑務所の隅や排水溝を這い回るナメクジにゴキブリ、蜘蛛のような蟲たちだけです。しかし、これもまた悪くないことなのかもしれません。蟲はどこにでもいます。処刑されるわたくしとは異なり、わたくしとお話をした蟲はどこにでも行けるのです。いつかどこかで蟲の声を聞いた誰かが、わたくしの遺志を継いで下さることを祈っております……』

******

妹に倣って十字架に埋め込まれたダイヤで指を薄く切ると、そこから蛆が溢れてきた。蛆はぼたぼたと女の子の顔の上に落ち、うっ血した顎と頬を這い回った。

いま目の前にいるのは、殴り込みをかけて返り討ちにされた謎の女の子だった。教会の奥の部屋にあるベッドの上で仰向けに寝かされている。シスターの撲殺ギリギリの滅多打ちからすると骨のいくつかは砕けていてもおかしくないのだが、不思議なことに、怪我の状態はそこまで酷くなかった。打たれた部分が多少赤黒くなっているだけで、転んで擦ったと言っても通らないことはないかもしれない。

あと気になることと言えば、彼女の顔に薄くかかっている白い網だった。放射状に広がり、間に橋がかかっている、いわゆる蜘蛛の巣。手を伸ばすと案の定それには感触がなく、指に絡んでいるのかいないのかよくわからない感じになった。蛆が何匹か捕まっていたが、物量で圧倒しており、大勢に影響はない。

そのまま三分ほど待っていると、顔を覆っていた蛆が引き、女の子が目を覚ました。顔からは赤みが完全に無くなり、健康そうな白い肌に戻っている。女の子はしばらく顔をぺたぺたと触ったあと、ようやく横に人が座っていることに気が付いたようで、咳払いをしてベッドから上半身を起こした。

「一緒にしないでください」

まず彼女が吐いた言葉は省略が利きすぎていて、人に何かを伝えようとするにはあまりにも無謀なものだった。

「あのですね、この世には二種類の人間がいるのです。それはバットで人の頭をフルスイング出来る人間と出来ない人間です」

「うん」

その基準はどうかと思うが、分類が排他的で無例外である以上、間違いとは言えない。状況や気分によるとか、多少力加減はしてしまうとか、そういう曖昧な値のどこに境界線を引くかさえ決めることができれば、世の中の人間を二つに分けることは確かに可能だろう。むしろどこに線を引くかが問題になるような気もするが、平均を算出して半々に分ければ妥当だろうか。

「言うまでもなく、キリは後者です。キリは悪意への危機感が欠落した人たち、悪意を悪意とも思わない異常者ではないのです。そういう人たちとキリを一緒にしないでください」

キリというのはどこかの地域で使われている一人称だろうか。多分そうだろう。

「先にバットで殴りかかったのは君のように見えたけど」

「攻撃は敵と場合により、死刑制度と同じです。あの悪魔のシスターを襲うのは世のため人のため。悪意ではなく善意ですので、セーフです。モスキートのやつもシスターと同じようなものです。羽化した蚊の湧き上がる悪意を見たでしょう。あれが蚊の本質でありますよ。古来より疫病を撒き散らし、人間の集団を殲滅してきた悪意の塊。無差別にバラ撒く災厄を悪と呼ばずして何が悪か! あの女はちょっとした自傷を元手に、それを媒介する蚊を撒き散らし、触れたもの全てに災厄を感染させて破滅に導く、そういう最悪な人間なんです」

「はあ」

「しかし、キリはあなたを巻き込むべきではありませんでした」

一転して、女の子はしょんぼりと顔を伏せた。

「キリは取り返しの付かない過ちを犯すところでした。あなたも一緒に殺すつもりでしたが、よく相手のことを知らなければ、無差別に人を殺す悪者と同じになってしまいます。あなたは退治されるべきではありません。きっとキリと同じで、普通の善意を持った平常な人間のはずですから。蛆虫は益虫ですし、蜘蛛も同じです」

気付けば、先程と同じように天井から数匹の蜘蛛が糸を伴って降りてきていた。ベッドの足元にも既に何匹かが這い回り、巣の網を張り始めたりしている。

「蛆虫が腐敗組織を食い除くのと同じで、蜘蛛も害虫共を退治し、長きに渡って人々と仲良く暮らしてきた、益虫中の益虫なのです! 善意に足が八本生えて歩き出した存在なのです」

情熱的に手を握られ、返答に困る。はっきり言って、それこそ君と一緒にするなよという感じがする。確かに私は人の頭をバットで殴れないが、それは相手によらない。別に相手が母親だろうが、死刑囚だろうが、普通人は人の頭をバットで殴れない。要は、常に殴れない人間、条件付きで殴れる人間、無条件で殴れる人間の三種類がこの世に存在したとして、これらを二つに分けるならば、私の感覚では前一つと後二つで分けるべきであって、前二つと後一つという分類を選択する彼女には疑問を感じるというか、相容れない。

躊躇なく人の頭部を強打するシスターや、あしきものを撒き散らす蚊の群れである妹を悪意のキャリアとみなすかどうかも、結局はどこにウェイトを置くかという個人の感覚の問題しかない気がする。自分の感覚では、はっきり殺害しようという意志をもってシスターを先制で襲った目の前の女の子の方が、悪意かどうかはともかく、アブノーマルな人間のように思われた。とりあえずいい人っぽい雰囲気があったシスターに比べて、バットと自己弁護を振り回している記憶しかない彼女には総じてあまりいい印象が無い。

「だから、今回は失敗しましたが、キリは無差別に悪意を撒き散らす人間ではないのです。キリは悪意を悪意と認識しているし、それを闇雲に人に向けてはいけないということを理解している、善良な一般市民なのです……」

こちらがあまり乗ってこないことを察してしまったのか、勢いづいた声は突然トーンを落とし、彼女は今にも泣きだしそうな声色でぶつぶつと呟き始めた。その言葉は無根拠な自己愛に終始していて、同情の余地があるとは思えなかったが、その落ち込み様だけは少し不憫だった。

「とりあえず、間違ったことをしたと思ったら謝った方がいいよ」

フォローを入れられる要素が何一つ無いので戒めのようなことを言ってみたつもりだったのだが、その言葉は彼女をとてつもなく感動させたらしい。

「あなた、まともです。凄く、凄くまともです」

ひとしきり目を輝かせたあと、ごめんなさいと大きく頭を下げた。その自己満足した態度が殺そうとした相手に対する謝罪として妥当かというと微妙なところだが、促してしまった以上、謝られたら許さないわけにはいかない。

贖罪の儀式を済ませた彼女は色々なことを話し始めた。好きな音楽、食べ物、テレビ。興味がなかったのでほとんど聞いていなかったのだが、饒舌に喋る彼女はとても楽しそうだった。今日の夕食は何にしようかなどと考えながらうんうん頷いていると、妹が扉を開けて顔を出した。

「治ったんならとっとと帰りなよ。シスターに見つかったら面倒なことになるからね」

「シスターも怒ってるんだ」

「逆、逆。お姉ちゃんは知らないかもね。『あなたがより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません』……あのシスターは絶対に自分のために怒ったりしないんだよね、そういう博愛精神をバグらせたやつが一番厄介なんだけどね。ほらほら、帰った帰った」

妹がシッシッと猫を追い払うように手を振ると、意外にも女の子は素直に立ち上がって部屋を出て行った。扉が閉じたことを確認し、妹は深く溜息を吐く。

「やっぱり懐かれたね。前から思ってたけどさあ、お姉ちゃんって変なやつに好かれる才能があるよね。シスターがあんなにぐいぐいいくところも初めて見たしね」

「あんまりありがたくないけど、バットで殴られるよりはマシかも」

「嫌いの反対は無関心だけどね。好きで殴ってくるやつに好かれないといいね」

 

邪魔が入ったのをいいことに、バイトについては後ろ向きに検討する旨をシスターに伝え、妹と共に家に帰った。

鍵を開けようとすると、先に扉を開けて見知らぬ少女が出てきた。ポニーテールにリュックサックといういでたちで、服装も短パンにノースリーブと涼しげだ。露出の多い服装は色気よりも引き締まった身体の健康さを際立たせていて、バスケ部所属というような体育会系のオーラを感じる。

目が合うと、お邪魔したっすー、としっかり挨拶をして軽く手を振り、走って帰って行った。癖らしい癖がなく健全そうな、それこそまともな人間に久しぶりに会ったような気がする。

「また来てくださいねー」

が、部屋の中から聞こえる声で考え直す。今まで家にいたということは、あのみやすんとわざわざコミュニケートしていたということなので、かなり極まった変人の可能性が高い。それを裏付けるように、床にはナメクジに紛れて見たことのない蟲が落ちていた。細長い胴体はあるが、触覚も足も見えず、ただの棒のようでもあった。腰を下ろしてよく見ようとすると、それは端からスーッと消えてしまった。元々消えかけだったのかもしれない。

「今の子、みやすんのともだち?」

「はい、お友達です」

「ただの知り合いじゃなくて?」

「お友達です」

「へえ。ところで、みやすんって人の頭をバットで全力で殴れる方? それとも殴れない方?」

「うーん。殴るといっても、私が振ったバットは飴みたいに曲がって彼女の頭に絡み付くでしょうからね。それ自体は割とよくあることですし、そういう意味であれば、殴れる方かもしれません」

みやすんが何を言っているのかさっぱりわからない。単純な質問に何か深淵な意味を汲み取ってしまったのか、それとも適当に喋っているのか。隣で妹が肩をすくめた。

 

(つづく)