絶対IDOL
「押」→「何か」。
押しボタンというのはこの世に数多ある因果システムの一つだ。その全てが人為の創作物であり、「何か」→「何か」という因果関係を「押」→「何か」に改変したケースがそれである。
炊飯器のスイッチ、つまり、炊飯の開始手続きが押しボタンである必要はない。凹凸端子で電気系統の配線を繋いでスタートとしてもよいが、誰もそんなデザインはしない。「炊飯」と書いたボタンを付け、その出っ張りを押し込むという動作に因果の源流を集約し、そこから求める結果がもたらされるように装置を設計する。因果を構築するにあたってボタンを用いるというのが人類の間に浸透した一つの流儀であり、押せば何かが起こるというのがボタンの機能的な定義である。
「では、実際に……」
軍手をはめた右手で、赤黒く錆びたボタンを押した。
このボタンは直接的には電気回路を繋いでバルブを開閉する起動スイッチであるが、もちろん実際に構築されている因果系は電気的なものに留まらない。ネットルームの個室ほどの大きさの箱とプラスチックの貯蔵タンクを繋ぐパイプのバルブが開くと、パイプを通じて貯蔵タンクから箱の中へ一酸化炭素ガスが流れ込む。一酸化炭素は空気と同程度の比重を持つため、箱の中でほぼ均等に混じり合って全体に漂う。箱の中には十数匹の犬猫が押し込まれており、バルブからガスが流入すると、犬猫の体内にもそれが侵入する。血液中に取り込まれた一酸化炭素が赤血球と結合して酸素の循環を妨害すると、犬たちは大きく叫んで走り回ったり鼻をもたげたりするが、これはシステムという面から見れば副産物的なノイズであろう。メインの最終出力は、全ての犬が糞尿を垂れ流して微動だにしなくなることである。
つまり「押」→「死」がこのシステム、ドリームボックスの全貌である。
押しボタンシステムの動作は終わったが、施設職員である彼女にはその後始末をする義務がある。専用の鉄棒で死体を台車に追いやったあと、ホースでドリームボックスの中に水をぶちまけ、糞尿を洗い流していく。清掃を終えたら、台車を焼却炉に運ぶ。中身を炉の中に放り込むと、もう一度ドリームボックスの前に戻り、電気系を全て落としてから、事務室に戻って腰かけた。作業着のまま、備え付けのメーカーからコーヒーを入れて一息吐く。
「ふー」
彼女は殺処分場職員という自らの職業を天職だと思っていた。
人には向き不向きがある。動物を救う仕事に向いているのは動物好きな人間だが、動物を処分する仕事には動物嫌いの方が向いている。好きだと殺せない、無関心だと飽きてしまう。嫌いだから殺せるし飽きない。嫌いというのも一つの才能である。
ただ、例えばゲーム好きだからというだけでゲーム会社で働けるわけではない。現実に職を得るための道は険しい。対外的には市立公共施設職員という立場を勝ち取るため、公務員試験の勉強や面接などと人並み以上の努力を重ねているうちに、彼女には当初とはまた違った考えが生まれてきていた。
そもそも、嫌いというのは好きというのと大して違わないのではないか。対象に対する感情表現の違いはフォームの違いであって、コンテントの違いではないのではないか。猫を見ると他人は撫でようとするが、私は尻尾を切り取ろうとする。そういう、具体的に何を選んだかという情報は、パラグマティックに並ぶ要素からどれを抜き取ったかというだけの話だ。「花」と言われて日本人は桜を思い浮かべるが、米国人はroseを想像するのと同じで、そんな違いはあまり重要ではないのだ。真に重要なのは、抜き取る意志が存在するという点、つまり、対象に大きな興味があるという点である。
フレッシュの封を開け、カップの上で素早く横に移動させながらひっくり返した。フレッシュから零れた人工ミルクはコーヒーの上に鋭い直線を描くが、すぐに滲んで毛の生えた猫の尻尾のようになってしまう。
「うん、よく出来てる」
尻尾作りは一人でコーヒーを飲むときに必ず行う遊びであるだけではなく、彼女が学生時代から続けている趣味の一つだった。彼女が一人暮らしをする家の箪笥の一番下の段には、防腐加工を施した猫の尻尾が何百本も詰まっているのだ。コーヒーの上ではミルクを垂らすだけで済む作業も、現実の上では街中に生息する猫から尻尾を採取する手間が必要になる。
猫の尻尾など簡単に切れそうなものだが、実際のところ職人芸とも言うべきコツが要る。そもそも猫の尻尾には尾椎という立派な骨が入っており、下手に切り込むと骨が邪魔して途中でハサミが止まってしまう。ならばと骨を避けて根元から切り取ろうとしても、骨盤と尾椎の繋ぎ目は身体の奥深くにあるのでそれも難しい。結局、複数の骨が連結している尾椎の中から一番弱そうな部分を狙うことになるのだが、今度は長さと難易度のトレードオフが問題になる。尾椎は先端に行くほど細く脆くなるので切りやすいが、切り取った尻尾があまりにも短いと格好が付かない。切断できそうな範囲の中で最も長く切り取れる箇所を見極め、逃げられないように一撃でバッサリ切らなければならない。作業は鋏の質や猫の体調にも左右され、一朝一夕ではとても身に付かない。
ぼんやりと思い出に耽っていると、スピーカーから終業を告げるサイレンが鳴って彼女の頭の上から猫の尻尾をかき消した。居座っていたところで残業代など出ないし、今日は飲み会があったはずだから急いで着替えて行かなければならない。彼女は一息でコーヒーを飲み干して更衣室に向かった。
彼女が立ち上がった椅子からは、何匹ものカタツムリが床に落ちてボトボトと音を立てた。
******
妹と並んでベッドに入り、電気を消した。
好きで一緒に寝るような仲良しではない。消去法だ。少し居住者が増えたからといって家具を買い足すわけもなく、睡眠スペースは寝室のベッドとリビングのソファーの二つしかない。今では自分と妹は前者、みやすんは後者で寝ることになっている。
「そういえばさあ、一週間前に教会に行ったよね」
本来一人用のベッドなので妹の声がやたら近い。比較的小柄なみやすんが一人でソファーを占領する権利を得ているのは、このベッドの狭さによるところが大きかった。この距離でみやすんと並ぶのは無理だ。起き抜けで眼前数センチにみやすんの眼球があるとなると、宝くじにでも当たらない限り、その日は人生最悪のものになるだろう。
「そんとき、キリはなんか言ってた?」
妹が他人を気にかけるのは珍しい。記憶を掘り起こし、会話をダイジェストで伝えた。とはいっても、妹に話せるのは世の中には二種類か三種類の人間がいるという部分くらいで、蜘蛛の少女が妹を含めた他の人間をどう思っていたかについては黙っておいた。サシでの会話をまた別の他人に話すという行為はあまり褒められたものではなく、せめて少しでも人間関係を歪める可能性があることは言わないでおくべきだという配慮によるものだったが、元々良好な仲ではないようだし、あまり気にすることはないのかもしれない。
「私だって、無差別っていうわけじゃないんだけどね。逆っていうかね」
実際、妹は自身が批難されていたことにもすぐに勘付いてしまったようだった。
「逆?」
「キリちゃんが条件付きで人をバットで殴れるってことは、裏を返せば原則殴れないってことだよね。それとは逆で、原則殴れるけど、条件付きで殴れないケースもあるっていう意味だね」
確かに、一週間前は思い至らなかったが、そういうケースもあるか。それを加えて四つというのがフェアかもしれない。黒地に白インクで描いた絵と、白地に黒インクで描いた絵の印象はだいぶ違う。つまり、
Ⅰ.無条件で他人を殴れるひと。
Ⅱ.基本的に他人を殴れるが、条件付きで殴れないひと。
Ⅲ.基本的に他人を殴れないが、条件付きで殴れるひと。
Ⅳ.無条件で他人を殴れないひと。
妹は原則殴れるのか、と聞こうとしたとき妹はもう寝息を立てていた。
姉妹にしては似ていないと言われることが多いが、それは寝つきについても同じだった。妹の眠りは迅速で深く、中途覚醒するのを見たことが無い。羨みながら布団を被ったとき、アパートのチャイムが鳴った。
「……」
時計を見る、夜の十一時。女性の三人暮らしということを考えれば無視すべきかと思ったが、向こうも何か差し迫った事情で非常識を承知で来ているかもしれない。仮にそうだとして、緊急の駆け込みを蹴ること自体への罪悪感はないが、来訪者はもう二度三度くらいはチャイムを押してくるかもしれず、しばらく自分が眠れないという以上にすやすや寝ている妹に悪い気がした。滅多なことでは起きないとはいえ、横で寝息を立てている人間を守るのは起きている者の仕事ではなかろうか。
なんとなく湧いた使命感に突き動かされ、結局ベッドを降りてしまった。物理的な距離が近いと人間は必要以上に共感的になってしまうのかもしれない、と考えながらドアを開ける。
「あ、もう寝てしまったかと思いました。夜分遅くすみませんね」
「本当だよ」
振り返る格好のみやすんと目が合った。アパートの階段を下りかけているところを見ると、チャイム一回で諦めて帰ろうとしていたのだろう。開けなければよかった、と早くも強く後悔する。
みやすんには鍵を渡してあるので、ただ帰ってくるだけならばチャイムを鳴らす必要はない。鍵を紛失したとか、玄関先で済ませたい用事があったとか、色々と可能性は思い浮かぶが、いずれにせよ特殊な事情が……恐らく、廊下まで戻ってきたみやすんの後ろにもう二人の少女が控えているのと関係がある事情があるのだろう。
「あの……お久しぶりです」
「どうもーっす」
よく見れば、二人とも見覚えのある面子だった。
手前には、先日教会を襲撃した蜘蛛の少女。今日はバットを持っておらず、赤黒チェックの丈の短いワンピースによく似合う小さなポーチだけを持っている。動きやすい(襲撃しやすい)ざっくりした服装だった先日とはかなり印象が違い、可愛らしい年頃の女の子という雰囲気だった。それに伴ってか、やや俯いて少しもじもじとしているが、夜中に他人の家の門を叩くくらいで緊張するような性質とは思えない。
奥側には、同日にたまたま鉢合わせ、みやすんが友達と自称してみせた、ポニーテールの少女。こちらはこの前会ったときと同じような服装だ。ノースリーブに短パン、そしてリュックサック。同じようなというか、全く同じなのかもしれない。向かい合って観察した印象も初対面とあまり変わらない。細身の身体は筋肉質で、立ち姿も様になっている。軽く胸を張って、両足に等しく体重をかけバランスよく直立しているというだけのことだが、無意識に行うのは結構難しいものだ。少なくとも何かスポ―ツをしているのは間違いないと見える。
「君たち、知り合いだったんだ」
「はい。こっちがキリで、そっちがぴよちゃん」
みやすんは手前、奥と目線を散らした。『キリ』というのは普通にニックネームだったらしい。たぶん一人称の変形だから二人称として他人が呼称する際に用いるのは不適切なのではないかなどと無駄に気を回して損をした。
一応自分も名乗ったが、改まって自己紹介をするほどの仲でも気分でもない。向こう全員が知り合いなのであれば、私と彼女たちそれぞれの関係(というほど深いものではないが)も共有していることだろう。早く本題に入れとみやすんに目配せすると、再び目が合ってしまって更に気分が悪くなった。
「今、暇ですかね?」
悪いイベントが立て続けに起こって気が滅入っている中、誘いとしては最悪なフレーズを受けてもうドアを閉めてやろうかと思う。相手がみやすん一人ならそうしていただろうが、ほぼ初対面に近い二人もいるとなると乱暴な態度を取るのは少し気遅れする。
「要件による」
「えーと、良ければ一緒に夜遊びしませんか」
「冗談はいいよ。そうでなければ、もっと正確に」
「いやいや、言葉通りです。そうですね、もう少し正確に言うと、子供が夜遊びするための保護者が必要なんですよね。蛆のお姉さんは成人してますし、一緒に遊べるくらいには子供なので、どうかなーということなんですけど」
微妙に上から目線の説明にくらくらする。得体の知れないみやすんのことだし、突拍子の無い話が来ても動じないつもりでいたが、保護者としてにせよ、遊び相手としてにせよ、そんな事情で求められるというのは予想外だ。そして俄然気になるのは、彼女の子供という自称である。
「君たち何歳?」
「平均で十六っすねー」
横から『ぴよちゃん』が答える。十六というのは高校に入りたてくらいか。みやすんは異質すぎて年齢不詳なところがあったが、他の二人が十六から大きく外れているとは思えないし、大体同じくらいだろう。誰も嘘を吐いていなければの話だが。
「なんで今日に限って保護者が要るのかな」
「普段はみやすんの従姉さんにお願いしてたんすけど、今日は仕事が忙しくて来られないってことなんで。色々と融通が利きそうな大人の知り合いってそうそういないっすよ。親世代だとさすがにアレっすよねー」
話を聞けば聞くほど胡散臭さが増していく。夜遊びなど不良の遊びだから楽しいわけで、律儀に保護者を求める彼女たちの行動は根本的にぼちぼち矛盾している。百歩譲って彼女たちが底抜けの良い子ちゃんズだとしても、親世代を連れて行くのは「流石に違う」という程度の夜遊びのコモンセンスは持っているわけだ。ならば、保護者がいないという事態になれば大人しく引っ込むのではなくそれでも突貫していくのが夜遊びの流儀だろう。
そんな状況でわざわざ誘いをかけた私に対しては、やはり保護者というよりは遊び相手としての立場が求められているのだろうか。そもそも保護者という概念、遊び相手という概念は彼女たちにとって完全に分かれて存在しているわけではなく、かといって一直線上に連続しているわけでもなく、両方を併せ持つことが許された独立したパラメータなのかもしれない。
「……」
しばらく考えた末、結局私は再び折れた。三人の少女たちと夜の街に出かけることにしたのだ。
暇なのは確かだし、そこまで面倒なわけでもない。せっかく助けを求めてきた彼女たちを邪険にするのは気が引けるというよりは、どこまでが建前でどこからが本音なのかがよくわからなかったというのが大きい。本音では遊び相手を求めていたのであれば、それはどちらかといえば好意に属する申し出なのだろう。
適当に着替えた上に薄い青のパーカーを羽織り、案内されるままに歩き出す。
道すがら、四人パーティーは自然と二人ずつ前後に分かれる形になった。前を行くぴよちゃんとキリは本当にとりとめのないことを話しており、その会話のつまらなさと自然さから察するに、彼女たちが元々知り合いであるというのは嘘ではないようだった。
私とみやすんは無言のままで姦しい二人の後ろを付いていく。意識してみれば、みやすんは私よりも頭一つ背が低い。覗き込まない限り目線が合わないくらいの身長差があり、最も警戒すべき彼女の眼球から距離を取れているのは良いとしても、そんな位置関係自体にはなんとなく嫌な感じを覚えた。物理的に背が上になるのは仕方ないが、形式上は保護者として同伴している今、彼女より立場も上になりうるという構図が凄く嫌だった。
この居心地の悪さは、たかが神主を神か何かと勘違いしているタイプの参拝者が必要以上にへりくだって何かを要求してきたときのちょっとした不愉快さに似ていた。立場には責任が伴う。私が承認していないにも関わらず、相手がこちらを必要以上に立てるというのは、根拠も見返りも無い責任が押し付けられるのと同じことだ。それを喜びとかやりがいに転化できる人間もいるかもしれないが、私は全くそうではない。
せっかく遊びに行くのにわだかまりを持っているのはあまりよくない。目的地に到着するまでにはどうにかして解決しなければならないと思い、何気ない風を装って切り出してみた。
「みやすん」
「はい?」
「終わったらアイス奢ってよ」
「わかってますよ。借りは返します」
当然のような返しに安堵し、そこでようやく自分が何を嫌がっていたのか、何を危惧していたのかをはっきりと理解した。
私はみやすんの保護者になりたくなかったのだ。別に遊び相手になりたいわけではなかったが、少なくとも保護者にだけは絶対になりたくなかった。一応大人として契約している部屋で子供の彼女を泊めている身だし、少し間違えればそこのボーダーはすぐに踏み越えてしまう。私とみやすんはそういう関係ではない。保護者ではないから、彼女を守る義務も導く義務もない。彼女が妹にボコボコにされているからといって止めなくてもよいし、居候だからという理由で金を巻き上げてもいい。出ていけば止めない。普段何をしているかも知らない。仮にみやすんが万引きや置き石をしていようとも説教などしない。みやすんの人生など知ったことではない。それは私の管轄ではない。
ささやかな見返りを要求することは、利害が一致しなければ動かないという無関係者を装うための必要条件だった。形だけでも貸し借りという対面を保たなければ、私は本当に善意で彼女らを監督する優しいお姉さんになってしまう。多分、みやすんもそのあたりをわかってくれているのだろう。
「みやすん、結構いいやつ?」
「冗談はよしてください」
全くだ。
二十分程歩いて到着したのは、いかにも夜遊びに適した繁華街だった。夜中だというのに見渡す限りに灯りが点いており、シャッターを下ろしている店はほとんど見当たらない。こういう街が近所にあることは知っていたが、今まで用事がなかったので足を踏み入れたことはなかった。
そんな中、我らがグループが足を止めたのはかなり地味な建物の前だった。小さな扉が一つ付いている以外には全ての窓に鉄格子のようなものが固定されており、いかにも怪しく、アクセサリー店や飲食店でないことは明らかだ。そもそもほとんど人気の無い通りに面しており、看板や貼り紙のようなものも一切ない。予約制なのか、裏口なのか、そもそも営業店の類ではないのか。
先頭のぴよちゃんが慣れた手つきでポケットから鍵を取り出し、扉の鍵を開けた。ぞろぞろと中に入り、狭い階段を降りていく。階段の先の突き当たりにはドアを改造した窓口のようなものがあり、暗くてよく見えないが、その奥には人がいるようだった。みやすんが手を挙げて軽く挨拶するのに応じ、ガチャリと鍵が空いた。
「ではでは行くっすよー」
気の抜ける声と共に、ぴよちゃんがそのドアを開けた。
瞬間、溢れんばかりの光と音が飛び込んで来る。うるさい、そして眩しい。しばらく暗い場所にいたということを差し引いても、尋常ではない刺激だった。
何が何やらわからないまま目と耳を片手ずつガードしていると、後ろからみやすんに押し込まれ、安っぽいパイプ椅子に座らされた。しばらく呼吸を整えてからガードを外し、そこでようやく現在の状況を認識した。
ステージ、観客、ポップミュージック。そしてライトアップされたアイドル……
「ライブ会場です、いわゆる地下アイドルの。座っているだけで良いので楽しんでくださいね」
隣に座っているキリが案内係のようなことを言う。確かに、ここはライブ会場だ。しかし、座っている場所が少し妙であることに気が付いた。
アイドルが踊ったり観客が熱狂したりしているのは一つ下の階で、今自分がいるのはロフトのように突き出た上階だ。仕切りガラスのようなものは存在せず、空間的に接続されているとはいえ、参加するというよりは見下ろしているだけ。客の密度も段違いで、寿司詰めになっている下階と違って、上階で並べられたパイプ椅子に座った客は自分たちを含めても十人程度しかいなかった。
「……」
改めて女子中高生三人組を確認する。ぴよちゃん、キリ、私を挟んでみやすんという順番でパイプ椅子に並んでいる彼女たちは早速楽しんで見ているようだったが、目を輝かせたり身を乗り出したりする程度で、下の観客のようにコールに応じたりサイリウムを降り始めることはない。
ひょっとしたら、あまり人混みに揉まれたくない人向けの席なのかもしれない。熱気の中で一体になって楽しむ人もいれば、一歩引いた位置から落ち着いて見守るのが好きな人もいるのだろう。いずれにせよ、混雑が苦手な自分にとっては好都合だった。もし下階に入場していたら、気分が悪くなってすぐに帰る羽目になっていたかもしれない。
「アイドルは嫌いでしたか?」
考え込んでいる顔が不機嫌に見えたのか、キリが心配そうに囁いてきた。
「あんまり興味はないかな」
「そうですか……」
「別に嫌いなわけじゃないよ。今まで特に触れる機会が無かっただけで」
落ち込んだキリの顔がパッと輝いた。こいつと話すと、らしくないフォローばかりしている気がする。バツが悪くなって目を逸らし、ステージに向き直った。
他のライブ会場を知らないので推測に過ぎないが、ここはそれなりに立派な施設であるように思われた。アイドルがパフォーマンスするステージは十分に広く、照らすライトは変幻自在に色を変え、小さなライトがメンバーの姿を追うなど、裏方の仕事も丁寧だ。マイクやスピーカーにも管理が行き届いており、アイドルと観客の掛け合いがやりやすいように逐一音量が調節されているのがわかった。
登場する地下アイドルたちはソロだったりグループだったりするが、ステージに上がっては一組あたり五分か十分歌って踊って去っていく。もちろん一人も知らなかったが、出てくる女の子たちはそれなりに顔が良いし、パフォーマンスのクオリティもテレビで見るようなものと遜色ないような気がした。どのアイドルも差別化のために個性的な衣装やキャラクター性を押し出しており、見ていて飽きない。
しばらくステージを見て、ふと時計を確認すると既に深夜一時を回っていた。終電が完全に無くなる時間だが、徹夜のイベントなのだろうか。いつまでやってるの、とみやすんに聞こうと思って左を向くと、そこには誰にもいなかった。
代わりに、少し離れたところで壁によりかかってステージを見下ろしている女性と目が合う。彼女は手に持った煙草の先で、席を指し示して口を開いた。
「隣、いーですか?」
「どうぞ」
みやすんが座っていた席だが、どうでもいいだろう。
「どーもどーも」
女性は携帯灰皿で煙草を揉み消し、その席にドカッと腰掛けた。座った衝撃で椅子が軽く揺れ、何か茶色いものがポトリと落下するのが見えた。
背中を丸めて確認すると、巻貝が二つ床に落ちている。それは扁平で綺麗な渦模様を巻いており、アンモナイトの化石のように見えた。座った女性がそれに気を払う様子は無いが、落としたことに気付いていないのかもしれない。キーホルダーか何かだろうか、と拾おうとして手を伸ばすと、二つの巻貝が同時に震えた。中から触覚が顔を出し、それぞれ別の方向へとゆっくりと這っていく。
いくら地下とはいえ、カタツムリがウヨウヨいるような汚さではない。いい加減、この事態にも慣れてきた。湧いてくるわけだ、またしても。
「ああ、拾おーとしてくれたんですか。大丈夫ですよー、すいませんね」
上から声が降ってくる。そうですか、と言って顔を上げると、覗き込んできた彼女と至近距離で目が合った。
近くで見ると、彼女の眼球は異質だった。黒目と白目の彼方、虹彩の奥に何かが渦巻いている。それを何と言ったものかわからないが、癒着させる液のようなもの……よく練った納豆から豆を取り除いて残った糸、乾きかけている接着剤を引き剥がしたときに残るベタベタ……そういう粘度の液体を集めて海にしたようなものが滞留していた。
それはみやすんの眼球によく似ていたが、みやすんのものと比べると積極性に欠けていて、こちらの身体に侵食してまとわりついてくるような湿度は感じられなかった。どちらかといえば嫌な印象ではあるが、あの強烈な不快感は存在しない。ただ、目の奥から感じる粘り気はみやすんのものよりも大きく増しており、粘度が高いが故に他人に絡みつくような流動性を失っているのかもしれない。
よく彼女を見れば、顔もみやすんに少し似ていた。髪質やその色、人を食ったような口元。ただ、身長はみやすんよりも大分大きく、顔付きも明らかに成人女性のもので、総合してみやすん(大)という雰囲気だ。そういえば、ナメクジとカタツムリもよく似ている。
そんな諸々の印象に対し、ここまで得た情報の中でぴったりと思い当たるところがある。
「……私のこと知ってますか? 例えば、知り合いの従姉だったりして」
「あら、鋭いですね、そのとーりです! おーい」
女性が私を跨いでキリとぴよちゃんに声をかけると、二人とも軽く手を振り返してみせた。
「今日は仕事で来られないんじゃなかったんすか?」
「予定より早く終わったのよ」
「へー、順調だったんすね」
「逆。仕事っていうか、飲み会だったから。盛り上がらなかったってこと」
言われてみれば、彼女からは若干アルコールの臭いがする。多少酩酊して饒舌になっているようだったが、普段から比較的テンションの高い人間なのだろうという気がした。
「そーいうわけなんで、年上同士仲良くしましょーね」
「はあ」
差し出された手を握ると、みやすん(大)の手は思ったよりも遥かに柔らかかった……などと思ったのは一瞬のことだった。
それは柔軟どころではなく、握手で生じた圧力によって、粘土のように形を変えた。私の指先が彼女の体内へとめり込み、ひんやりとした感覚が手の先端を覆った。
驚いて手元を見ると、私が握っているのは人間の指ではなく、カタツムリの塊だった。粘液で結合し、それぞれの境すらも曖昧になったカタツムリの群れ。それに指が食い込んでいくにつれ、ヌメヌメとした軟体部に混じって、殻の堅い感触もする。
得体のしれない現象に抵抗する間もなく、カタツムリが爪と指の間からこちらの体内へと入り込んできた。指先から腕に至る血管の中を、カタツムリの殻のパキパキとした感覚が通過していくのがわかる。私がカタツムリの群れに手を埋めたように、カタツムリもまた私の中へ侵入しているのだ。私と外界の境界はカタツムリによって崩され、私の腕もまたカタツムリの塊に変貌していく。腕が次々に書き換えられていく感覚は猛烈に不愉快で、全身に鳥肌が立った。その気持ち悪さはみやすんの眼球を覗き込んだときのそれと全く同質だが、私の身体の中に粘液を残すどころではなく、粘液の海の中へと誘い込み、同一化させようとする意志を持っていた。
「!」
カタツムリの奇妙な感触が体幹に達したとき、猛烈な勢いで私の腕が跳ねた。握手を振り払い、カタツムリを振り払うように真上へと持ち上がる。カタツムリの塊に変貌しつつある腕が自分の意志で制御できていたのかどうか自信がなく、この跳ね上げは熱した鍋に触れたときの条件反射に近い気がした。
直後、カタツムリに覆われていた部分の中心あたりから爆発的に蛆が湧いた。限界まで溜まっていたダムの堰が切られたように激しく、可能な限りの最速かつ最大分量であろうというスピードと量で腕から蛆が溢れ出す。私の腕全体を伝ってその全ての領域を源泉とした蛆の川が生じ、ビシャビシャと床に落ちて滝と滝壺を作った。無数の蛆は圧倒的な体積によって粘液による結合を分断し、カタツムリたちを次々に叩き落していく。それだけでなく、カタツムリは蛆虫に妨害されて新たに腕に取り付くこともできない。落下したカタツムリたちが蛆の津波に覆われてほとんど見えなくなった頃には、蛆の発生も止み、元の右腕の肌色が蛆の下から覗いた。
「はーっ、はーっ」
右腕の裏表を確認する。恐る恐る指を動かすと、表面に残っていた蛆を弾いて元の火傷痕の残った指先を視認できた。
これほどの量の蛆虫が一度に湧いたことは今までに無かった。彼女がそうかはわからないが、少なくとも彼女との接触は明確な脅威だ。蛆虫が湧くということはそういうことなのだ。みやすんと同類という時点で迂闊に心を許すべきではなかった。次の行動に気を払う余裕が無く、ひたすら息を整えていると、驚きと申し訳なさが混じった顔のみやすん(大)が缶コーヒーを両手で差し出してきた。
「ごめんごめん! こんなになるとは思ってなかった、いや本当に。これ、お詫び」
ひったくって一気に飲んだ。缶の外側に結露した水が指を濡らす。中身も限界まで冷えていた。恐らく今さっき自販機から買ってきたものだろうが、元から持っていたのか、私がカタツムリと戦っている間にそんな暇があったのか、気が動転していた間の時間感覚が全くわからない。そして反省した直後に無警戒に差し入れを飲んでいることに今更気付き、内心軽いショックを受けた。
「いやー、お近づきのしるしにと思って試しにカタツムリを撒いてみたらとんでもないことになってしまったな。私たち気が合うのかなー、なんて」
「カタツムリって他人の体内から湧くような蟲だっけ? それこそ蛆の仕事だと思うんだけど」
ナンパのような言い草を無視して質問をぶつけた。ペースを握られるべきではないという危機感によるものだったが、既にお互いに敬語を崩していることに気付く。
「うーん、湧くとか湧かないじゃなくて。例えば、カタツムリとかナメクジが気持ち悪いのってどこだと思う?」
答えを考えている間に、みやすん(大)も同じ缶コーヒーを開けて隣で飲み始めた。既に蛆虫もカタツムリも地面から消滅し、お互いの腕はまともな状態に戻っている。
「見た目とか、感触とか、全部」
「それ言ったら蛆もゴキブリも同じじゃない?」
「同じだと思うからそう言ってるんだけど」
「うーん、惜しい。三十点」
「正解は?」
「混じるのよ、ナメクジとカタツムリは。ナメクジが腕の上を這ったあとってヌメヌメした粘液が残るじゃん? その粘液とナメクジの身体の境がどこにあるのかはよくわからないしさ、這った後が全部寄生されたみたいな、混濁への抵抗感みたいなものがあるのよね」
確かに、ナメクジに触った痕は洗い流しても永遠に落ちないような独特の気持ち悪さがある。みやすんの眼を覗き込んだときに感じる嫌な気配もそんな感じだ。身体に入り込んで粘液を付着させていく。それは目の奥に取り付いて拭うことができず、いつか勝手に一体化してしまうのではないかという恐怖が生まれる。
「ナメクジとカタツムリは、蛆虫や蜘蛛と違って身体が固体じゃなくてゲルで出来ているからね。身体が曖昧ということは、境界が曖昧。境界が曖昧ということは、外界も曖昧。ちょっと間違えると、あなたを巻き込んで一体化してしまう的なことね」
みやすん(大)が話を締めくくったとき、ステージのライトが妖しい光を放った。
今は先程まで踊っていたグループがちょうど退場したところで、次のアイドルが登場するのだろうが、ステージの雰囲気が今までとは全く違った。赤や橙のいかにもアイドルらしい暖色のライトアップが紫や水色を基調とした寒色へと変わり、流れる音楽もポップなものから物悲しいものへと変わった。
「次に出てくるアイドルは変わり種系?」
「まーそーね。けど人気者よ。盛り上がっていこー」
黒を基調とした、メイド風のコスチュームを纏った少女がステージ奥から現れた。俯いた顔には他のアイドルと一線を画する硬質のオーラがあり、人気があるというのも納得できる。今まで興味の無いアイドルに対してはあまりステージを見ずに雑談に興じているような客もたくさんいたのだが、彼女が現れてからは全員が物音を立てずにステージを注視していた。
「注目されてるんだ」
「そりゃもう、ここのナンバーツーよ」
少女が歌い始めた。ダウナーなステージの雰囲気に合ったゆったりとした歌い出しだったが、すぐに激しいロックミュージックに転調し、突然女の子らしい健気な歌謡曲へと変わる、かと思えばエレクトリックな電気音が溢れ出し、次の瞬間にはサイケデリックへ、数秒ごとに音楽が移り変わる。
ステージを照らすライトも音楽に合わせて目まぐるしく変わっていくが、驚くべきはナンバーツーの少女だった。迷走する音楽に合わせて、一瞬たりとも遅れることなく、ただちにふさわしい歌を合わせていく。彼女の歌にはAメロBメロどころかサビすらなかった。ただ切り替わる曲に合わせて、歌っている曲を瞬時に別の曲へ乗り換えるのだ。「煩悶」という歌詞を子音のmでぶった切り、息継ぎすらせずに次の瞬間には洋楽を「classify」の二つ目のsから歌い出すというような離れ業をやってのけた。
再生される曲は完全に切り替わるわけでもなく、バラードを歌っている最中にメタルの音が入り込み、同時再生がかかるようなことも起こる。しかし、彼女はしっとりとした曲を歌いながら、激しい音に合わせて足を踏み鳴らすという器用な動きで完璧に対応した。同時再生は増えたり減ったりし、次々に混ざりあっていく。ただでさえ大量の曲が流れてくるのに、その組み合わせとなると、対応すべき状況は爆発的に増大する。そんな中でも、観客とコミュニケーションを取ることも忘れていない。ちょっとした間奏が挟まる隙間に片手で観客のコールを煽ってみせる、そのタイミングの取り方も驚異的だった。
様々な要素を取り入れ、それらを見事に調和させている……というわけでもなく、無限の細切れを無差別にグチャグチャにひたすら継ぎ接ぎしているという印象だった。面白いかどうかで言えば確実に面白い。無限にチャンネルをザッピングして混線させていくパフォーマンスから目が離せない。
「けど、これってアイドルというより、パフォーマーじゃない?」
「お、いいこというねー。でもあれはアイドルだよ。パフォーマーと違ってアイドルはファン……信者を集めてナンボなの。ほら、見てみ」
みやすん(大)がオペラグラスを差し出してきたので、とりあえず受け取って覗いた。
顕微鏡であれ双眼鏡であれ、拡大鏡を即座に合わせるのは難しい。少しずつ位置を調整する作業が必要になるわけだが、その途中で、舞台端で小さく動く、見覚えのある蟲を見つけた。舌打ちをして、今度こそアイドルに照準を合わせる。
「見えた?」
みやすん(大)が楽しそうに聞いてくる。
「おかげさまで」
「驚いた?」
「そこそこ」
みやすんだった。今、目の前でパフォーマンスをしているアイドルはあのみやすんだ。そして、ステージに無数に這っているのはナメクジだ。何故みやすんがアイドルを……などということはあまり気にならなかった。尋常ではないのがみやすんの特徴なので、そのくらいの奇抜さならむしろ持っている方がしっくり来るような気がする。実際、それがみやすんであるとわかった後も、パフォーマンスをするアイドルは相変わらず輝いて見えた。オペラグラスで拡大して見ても、優れた容姿と華奢な身体にコスチュームがよく映えていることがわかるだけだ。
今まで検証を試みたことなどなかったので気付かなかったが、みやすんの目は一方的に覗き込むだけならばほとんど不快感を催さないことがわかった。オペラグラスを挟んでいるというのもあるのかもしれないが、恐らくあの独特の粘りが発生するのはお互いに目が合ったときなのだろう。このような状況であれば、眼球のディスアドバンテージも打ち消すほどの魅力があるということなのかもしれない。
「正味、あんま驚いてないね?」
「まあ、目さえ合わなければ外見はいいし」
「それはちょっと違うね。ギャップ萌えでもない。正真正銘、あの目があるからみやすんはアイドルなのよ」
「マイナス査定じゃないってこと?」
「そーそー。見るだけでトラップできる眼球なんて、アイドルとしては理想的どころじゃない。アイドルに一番重要なのはファンの興味を惹けるかどうかで、最悪は無関心だけ。あ、みやすんよりは客席を見た方がいいかも」
彼女の言葉に従って、オペラグラスから目を外す。地の利を活かして場内全体を俯瞰すると、みやすんに注目している間にライブ会場は大変なことになっていた。
みやすんのパフォーマンスに熱狂している観客の身体の表面をナメクジが這い回り、人間同士を接着するかのように合間を埋めていく。その様は、先ほど幻視したカタツムリの群れに似ていた。カタツムリが粘液を介して塊になっていたように、観客たちがナメクジを介して一つの塊になっているように見えた。
「ナメクジもカタツムリも機能は同じだよ。眼球にトラップされたあとは、ナメクジが境界を壊してしまう。好きも嫌いも溶かしきって、じわじわと一体化してしまうのよ」
目の前では、カタツムリのときほど劇的ではないにせよ、徐々にナメクジが観客を溶かし始めていた。ナメクジに触れた表面から観客の身体が粘液に変わり、隣り合った観客同士で粘液が混ざり合い、その隙間を埋めていたナメクジはゲル状の身体へと置き換わっていく。会場全体でその変異は進行しており、会場全体を這い回るナメクジは百匹や二百匹では足りないほどだった。
ファントムの蟲たちにも生息地というか、湧きやすい場所があるのかもしれない。私と蛆虫にとっては神社、シスターとゴキブリにとっては(たぶん)教会が生息地であるように、恐らくみやすんとナメクジにとってはライブ会場がそれなのだ。
「何が良いんだろう……」
つい、そんな呟きが口から漏れた。私と蛆虫は、みやすん(大)のカタツムリを拒絶した。同じように、大量に湧いているナメクジを見ても魅力的だとは全く思えない。混ざるという特典があったところで、もたらされるのは嫌悪感だけだ。
「いまどき、一体化をはっきりと拒絶できる方が少数派なんじゃない? 何かに飲み込まれて生きていくのは楽なことだし、アイデンティティを死守しようとする人間なんて時代遅れっていうかさ。いや別に、私はどっちも良いとか悪いとか思ってないけどねー」
一部のナメクジは垂直な壁を這って二階まで上がってきていたが、こちらに近付こうとするナメクジは、ある線を境にしてそこから先に進めずにいた。そのラインに目を凝らすと、数匹の蜘蛛たちによって巨大なネットが張られているのがわかった。教会でキリが落ちてきたときと同じだ。網にかかったナメクジの動きは極めて遅くなり、元々ノロい歩みと合わせてほとんど進まなくなっているように見えているのだ。隣を見ると、キリはパイプ椅子三つほどの上に横になって寝息を立てていた。横たわる身体はぴよちゃんがいた席まで占領している。
網に絡み取られているナメクジの内の一匹に軽く触れると、少しだけ指が溶けて粘液と混ざり合った。やはりカタツムリのときほど激しくはないが、なるほど確かに同じ現象が起きているように感じる。もちろん境界面からはすぐに蛆が湧き、ナメクジによって崩された肌を修復した。
みやすんの継ぎ接ぎのパフォーマンスは続いている。客席の中には粘液が渦巻いており、観客たちは胡乱な目をしてそれに溶け込み、一つの塊になる寸前のように見えた。それは釜の中でぐつぐつと煮えているシチューに似ていた。一つの器の中で、とろりとしたスープの中に具材が溶け込み、一つの料理として成立しているかのように、ライブ会場の中で、ナメクジが発する粘液の中に観客が溶け込み、一つの何かになっているのだ。
もっとも、彼らの行く末など知ったことではない。私は保護者ではない。彼ら一人ひとりのそれではなければ、当然ながら社会に対するそれでもない。私にとっては、みやすんのパフォーマンスはそれなりに面白いというのが評価の全てだ。軽く伸びをしてステージに向き直ったとき。
「ワタシを見なさいっ!」
何の前触れもなく、突然スピーカーから命令の声が響き渡った。みやすんを妖しく照らしていたライトが落ち、サウンドがぶつりと切れた。
気付いたときには、サイドテールの少女がステージの中央に降り立っていた。白いシャツに赤を基調にした上着、臙脂色のスカート。頭には髪を片側で結ぶ山吹色の大きなリボンが映えている。彼女が着用しているのは正統派のアイドル衣装で、他のアイドルのように捻ったところが一つもなかった。王道を行く装飾が彼女の自信の現れであるということは、意志の強そうな切れ長の目を見れば明らかだ。
新しく現れた少女は、みやすんにいきなりの宣戦布告を繰り出した。
「もう十分でしょう。今日こそワタシと対決しましょう」
みやすんは歌うのを止めて、肩をすくめる。
「嫌です。私の次はあなたですし、もう譲ります」
「何よ、せっかくワタシが来たのに張り合い無いわね。アナタと決着を付けに来たんだけど」
「降伏です。あなたの勝ちです」
あまりにもやる気のないマイクパフォーマンスを見せたみやすんは、その場に体育座りをして拍手をし始めた。おちょくっているように見えた、というか実際そうなのだろう。乱入してきたアイドルは仕方ないというようにみやすんを真似て肩をすくめてみせたが、やる気のなさは全くコピーできておらず、気にしていない風を装っているだけで本当は腹立たしいというのが伝わってくる。
「あいつは何なの?突然割り込んできて」
「このイベントはハプニング上等だから、割り込みはオッケー。それがナンバーワンアイドルともなればなおさらね」
どちらかというとチャレンジャーっぽい登場の仕方だったが。
「そのナンバーワンの娘はなんて言うの?」
「THEXXX」
「ジグ……何?」
「ジグザクス。THEにXが3つ付いて、ジ・グザクス」
「ワタシを見なさいっ!」
もう一度、ジグザクスが咆哮した。それは単にバーバルな形式とは違って身体に直接訴えかける圧力を持っており、さすがナンバーワンはオーラがあるなあなどと考えていたが、彼女がパフォーマンスを始めると、その感想はほぼ的外れであったことがわかった。
ジグザクスはみやすんのステージを受け継ぎ、みやすんが流していた曲をそのまま使用した。ジグザクスがハンドサインで音響に何事かを伝えると、みやすんが使用していた無数の音楽は切れることがなくなった。ただし、新しい曲の再生は止まらない。流れる音楽の種類は減ることなく、次々に重なり合い、無限に混迷を増していく。
混沌とした多重音楽の中で、遂にジグザクスがマイクを構える。彼女はどの曲にも全く乗らず、媚びず、顧みず、全てを無視して自分の持ち歌と思しきものを歌い始める。どんな要素も掬い上げたみやすんとは正反対に、あらゆる背景を平等に無視し、ただ我だけを押し通そうとする意志。
ステージには彼女の歌だけが朗々と響いた。背景で流れる様々な音楽と、彼女の歌は同じくらいの音量だというのに、彼女の前では伴奏は存在しないのと同じだった。比喩ではなく、他の音など本当に聞こえない。彼女の歌は自身以外を無意味なものとして暴力的に棄却する力を持っていた。その独占は聴覚から始まり、視覚、触覚までにも及んだ。ステージに立つジグザクス以外の一切が見えなくなってくる。今実際に触れている椅子の感覚よりも、「もし彼女に触れたらどんな心地だろう」という、いつかあるかどうかもわからないあやふやな想像が優先される。
ナメクジの粘液に巻かれていた観客たちがジグザクスに向けてサイリウムを振ったり、歓声を上げたりし始めた。胡乱な目が生気を取り戻し、ジグザクスだけが彼らの復活した目に映る。それに伴ってナメクジが引いていき、観客と周囲との癒着も徐々に無くなっていく。粘液に溶け込む寸前だった観客たちは少しずつ本来の形を取り戻していった。
みやすんのライブは混ざり合うように観客を巻き込んだが、ザグザクスのライブはある種の根本的なヒエラルキーを観客に押し付けた。そもそも、混ざるというのは同じレベルのもので無ければ起こらない現象だ。水と油は混ざらない。どんな傾きも存在しないフラットな場に観客と自分を置き、まとめて混ぜるのがみやすんのパフォーマンスだった。それに対して、ジグザクスは特異点だ。無限遠に存在する、観客席からは絶対に手が届かない場所にいる。知覚を離脱し、個々人が頭の中で夢想し表象する、実現不可能な完全なる何かに最も近い形で顕現しているものだった。観客は手の届かぬ彼女を見上げ、その微かな射影を胸の中に落とし込む。ジグザクスを支えに自立することが可能になるので、もはや混じり合う必要など無くなる。
観客たちは他の全てを忘れてジグザクスを見る。もし今この会場が火事になったとしても、ジグザクスが歌い続けている限りは逃げられる者はいないだろう。彼らは外界と混じり合う必要が無くなった代わりに、知覚できる外界がジグザクスだけになった。ジグザクスが集めるのは憧れなどという生易しいものではなく、アイデンティティと言ってよいような人間のコアだった。ジグザクスが存在するというただ一点においてのみ、己の存在理由を見出すことができるように強要される。みやすんが自身を中心に溶解する同心円だとすれば、ジグザクスは自身を中心に構成する放射線だった。みやすん(大)はアイドルは関心を集めるのが目的だと言ったが、ジグザクスは関心それ自体だ。内容そのもの、不可避の太陽。目を背けたり、瞼を閉じるという選択肢は存在しない。見るしかない、そして焼かれる他無し。
だが、しかし。
「私はあんまり好きじゃないな。みやすんも、ジグザクスも」
「へー、なんでなんで?」
ぽろりと出た本心に、みやすん(大)が興味津々という風に食らいつく。彼女もそうやって無駄口を叩く程度には集中していないわけで、ジグザクスに何もかもを奪われてしまったかのような観客とは様子が違った。
「嫌いじゃないし面白いとは思う。特別好きになる理由はないっていうだけで、何でもない理由を説明するのは難しいけど」
「そこをなんとか」
「……不必要だからかな」
「あはははは! そりゃそうだ! 不必要て、はははは!」
みやすん(大)が大声で笑った。周りの迷惑など一切鑑みない、本当に大きな笑い声だったが、そんなことは誰も気にしていなかった。みやすん(大)の笑い声が尽き、面白いね、と言って向き直る。何か好感度が上がった気配を感じ、反射的に誤魔化す話題が口を突く。
「そういえば、この席って」
「関係者席だよ。私たちはアイドルの知人枠」
「やっぱり」
最初からおかしいとは思っていたのだ。いくら何でも人がいなさすぎるし、入場料も取られなかった。最初の妙な入口は、関係者だけに知らされた裏口だったのだろう。だとすれば、更に気になることがある。
「なんで私が呼ばれた?」
みやすんの徹夜出演が既に承諾されているというのに、今更保護者がいるとかいないでどうこうということはないだろう。実際、その有無を確認されたりなどしなかった。
「君、結構鈍いね」
みやすん(大)はまたも面白そうに言って、突然私の肩を抱き寄せた。
「君が思ってるほど、他人は君をNPCだと思ってないよ」
顔が近い。酒臭さの他に、獣臭さを感じた。血と肉の臭い。自分の身に何が起きているかを考えようとして、しかし自惚れの境界を越えることを自制したとき、私とみやすん(大)の間に突然蜘蛛が降りてきた。更に後ろから肩を掴まれ、私はみやすん(大)のテリトリー内からぐいと引き戻された。
「お姉さんたち、もうライブは終わりましたよ」
私の肩を掴んだキリはそう言い放ち、憮然とした顔でみやすん(大)を睨んでいたが、みやすん(大)は何でもないようにキリの頭を撫でた。
階下を見ると、そこにはもうみやすんもジグザクスも、もちろんナメクジもいなかった。ギラギラとした特殊ライトは落ち、館内全体を照らす通常照明が点灯していた。ざわざわと帰り支度を始める観客の間には粘液はなく、かといってあの妄信的に燃える眼差しもなく、ほどほどに独立し、ほどほどに交流する平均的な関心発生源に見えた。
「お疲れさまです」
奥の扉から関係者席へと現れたみやすんはすっかり着替えを済ませており、メイド服からいつもの学生服へと戻っていた。
「楽しめました?」
「まあね」
ライブ会場を出ると、繁華街には朝の太陽が昇り始めていて、日差しが目に沁みた。
三人とは適当に別れてみやすんと二人で家に帰ると、部屋の扉の前でちょうどどこかから帰ってきた妹と鉢合わせた。妹の方は機嫌が悪そうで、目にくまができていた。あの後、妹の方も何か用事があって起き出して徹夜する羽目になったのだろうか。
部屋に入ってベッドを目にすると、途端に猛烈な眠気が襲ってきた。妹とみやすんも同じだったようで、シャワーすら浴びずに三人揃って各自の寝床に倒れこんだ。
布団の中で薄れゆく意識の中、今日はもう神社は開かなくていいか、と一人頷いた。
(つづく)