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大日本帝国憲法、選挙に行く(行かない)

こんばんは、大日本帝国憲法です。

今月は僕の20回目の誕生日があります。すなわち成人ということで、酒だのタバコだのと、法的な権利も色々と変化を迎える年齢になります。

中でもとりわけホットな変化の内の一つは、やはり選挙権を持つようになるということだと思います。一応、僕も選挙権を得るにあたっては教養ある一国民として主体的に選挙に参加していきたいとは思っているのですが、考えれば考えるほど選挙に参加するということは困難であるような気がしてなりません。なぜかというと、あまりにも政治が難しいからです。

政治上の問題について自分で考えて決定が出来るようになるには膨大な労力を要します。例えば、消費税の増税ひとつを取ってみてもそうです。増税を支持するのかしないのかを決めるということは、増税によって起こる結果を予測して考えるということです。具体的には、現在の国の財政状況を確認し、増税した場合の用途の見積もりを立て、リスクリターンを算出した上でその結果を適切に評価するというプロセスが必要になります。

これを僕がやろうとしても、まず国の財政状況はどこでどの情報を見れば確認出来るのか知りませんし、見積もりを立てる能力も無いです。いわんや評価のようなことは全く出来ません。つまり、現状で僕は増税について支持・不支持を決定することが出来ません。

これは増税に限った話では無く、全ての政治上の話題について同じことが言えます。専門的な知識を必要とせずに評価出来る話題は一つもありません。原発問題のような、科学的な知識も必要になるような話題となるとなおさらです。努力して専門的な知識を身に付けようと思っても、それはあまり現実的ではありません。必要な知識が多すぎて時間が足りないからです。僕は理系学生なので普段は熱力学や情報科学と格闘していますが、これに加えて経済学、政治学を学ぶのは身が持ちません。別に僕が大学生でなくても、社会人が勤務しながらそれらを学ぶのは同様に困難だと思いますし、要求としてはやはり現実的ではありません。

というか、そもそも、極めて専門性の高い問題について素人からの意見を基盤に決定すること自体がおかしいような気もします。政治的な問題を扱うのは政治家の仕事であるわけで、情報の咀嚼だの評価だのはその道の専門家がやるべきではないでしょうか?個人的なことを言えば、僕は民主政治というのは愚形の統治形態で、専制政治が理想に近いと思っています。まあ、現在の日本は民主制なわけで、僕は民主制に依る選挙を如何にして生き抜くべきかという話をしているところなので、この話は脱線です。もうしません。

 

ここでひとつ、僕が考えた解決策を提示してみます。それは解析・評価を国のレベルではなく、個人のレベルで行ってみるということです。今まで話してきた政策の評価は、国の観点に立って良い政策かどうかを考えるという方法で行っていました。しかし、それは難しすぎて実行出来ないので、政策が国にとってプラスかマイナスか考えていたところを、この僕にとってプラスかマイナスか考えて評価してみるのはどうだろうというわけです。

こうしてみると、評価はだいぶ簡単になります。例えば増税に関しては、僕はお金をたくさん払うよりは少なく払う方がいいので、反対ということになります(増税に伴う副次的な効果は無数にあるでしょうが、僕は今精々バイトか小遣いくらいしか収入源の無い大学生なので、それらの収入が増税に多大な影響を受けるとは考えず、ひとまず無視します)。

これなら比較的簡単ですし、評価がブレません。全体としてみても、仮に国民全員がこの方法で選挙に参加したとすれば、個人個人が自分にとって良いか悪いかだけで考えているわけですから、個人ごとの幸福度の合計はただちに最大になります。

おっ、これはなかなか悪くない。ひょっとして、選挙って最初からこういうツールだったのか?

と思ったんですが、なんかこの発想って衆愚政治に繋がるらしいんですよね。例えば手元の百科事典マイペディア:衆愚政治の項目を見ると「浮動的な大衆が政治に参加して無方向・無政策な決定を行う政治」と書いてありますし、wikipediaに至っては、もっとはっきりと「有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す」とか書いてあります。どうやら、民主主義においては個々人のエゴイズムを追及してはいけないらしいです。もし皆が全体のことだけを考えた結果、一時的にでも不幸な個人が多くなった場合はそれは民主主義の本懐なのか?とか色々ツッコミたいことはたくさんあるんですけど、じゃあどうすりゃええねん、ということで、今回の話は結論が出ないままおわりです。