鬱病で休学した東大生の記録

一応タイトルをセンセーショナルにしてみたが、こうしてみると逆にありきたりでいくらでもありそうだ。
ちなみに鬱病と言うのは若干盛っていて、抑うつ状態ではあるが鬱病という診断までは出ていない。「鬱病?」と主治医に聞いたところ「そう診断するのが妥当な状態」という煮え切らない返答で、診断書を書くのにはそれ以上必要が無かったので確定はしていない(なお、「抑うつ状態」は症状、「鬱病」は病名である。「頭痛」は症状だが、「脳炎」は病名であるのと同じ。厳密に使い分ける気はないので、「鬱」「鬱状態」とか適当に書くのを適当に解釈してほしい)。


1.発症
一般に、強いストレスが鬱病を引き起こすと言われる。
私は今年の九月に行われた院試に落ちた。挫折経験の結果、気分が落ち込み鬱状態に……というストーリーであれば話は簡単なのだが、そうではない。院試に落ちたから鬱になったのではなく、既に鬱だったので院試に落ちたというのが真相である。院に落ちた直後は「やはりか」という感想で特にショックは受けなかったし、今も大して気にしていない。
自分で見る限り、発症の契機は恐らく大学院入試の願書を書く段階にあったと思う。ほとんどの学部四年生がそうであるように、私は院に行くか就職をするかという判断を迫られ、一応は院に行くという選択をした。しかし、私は院には全く行きたくなかった。
昔から学校が嫌いだった。例外はない。幼稚園が嫌いだったし、筑駒も嫌いだった(念のために書いておくが、筑駒の友人は嫌いではない。学校が嫌いだというと今も友人付きあいがあるじゃないかと言われることがあるが、私にとってその二つは全く別のものだ)。私は東大入学二ヶ月で精神科通いになったが、これも東大で特別何か嫌なことがあったからではなく、かねてより学校通いに関しての違和感を精神科に相談してみたいと思っていたところで保健センターの存在を知って使ってみたというだけだ(料金がかからず、実家で共に暮らす親に秘密で通えるというのも大きかった。精神科に通っていると知れれば理由や病状を根掘り葉掘り聞かれるだろうが、それを説明するのは面倒臭い上に不愉快だからだ)。
通ったことが無いので知らないが、恐らく大学院も嫌いなのではないかと思う。だからといって就職を選ばなかったのは、大学院よりも更に悪い可能性があるからだ。社会にも出たことが無いのでやはりはっきりとは言えないものの、大学院と社会で単純な拘束時間を比べた場合、明らかに後者の方が長い。よって、どちらにも同じ密度で嫌いな要素がある場合、社会の方が嫌い度が大きいことになる。大学院なら、最悪でも現状維持程度で済むだろう。
要するに、私の進路選択は極めてネガティブな選択肢二つの中からよりましな方を選ぶという選択であり、全く積極的なものではなかった。未来に関して詰んでいたのだ。
進路の選択に際して本意でない道を選ばざるをえなかったことに加え、そもそも「本意の道」が存在しないのではないかという未来の見通しの暗さを認識し、院試の勉強をしようとしても手に付かない状態が続いた。ただ、これは述べてきたような平常な精神状態の範囲で院に行きたくないという気持ちが作用したもので、後述するような病的な無気力状態ではなかった。

鬱の萌芽かどうかはわからないが、この時期の異常行動としては、どうしても大学院入試の書類を触るのが嫌で封筒を逆さにして床にぶちまけて取り出していたことがある。

 

2.悪化
院試に落ちた段階で、どうせ留年は確定しているし休学したいという旨を両親に伝えた。しかし、とりあえず卒論を書いて単位を保留し冬入試で院に合格して来年の夏に入学するという方法であれば通常の留年よりも停滞期間が半年減ることがわかり、そのルートを目指すことになった。
私としてはもう限界が近いことを認識しており、初めから卒論を書けるかどうかは五分五分だと思っていた。念のために言っておくが、私は今までに必修はもちろん選択科目の単位も落としたことはほとんどない。必修であるところの卒論が書けないだろうなという見込みを立てるのは、どちらかといえば異常事態である。
そういうわけだから卒論にかけるやる気もなく、適当に希望を書いたために第何志望のところに配属されたのかもわからなかったが、とにかくどこかに配属され、卒論研究がスタートした。
配属された研究室は非常に緩く、コアタイムが無く、ゼミもなく、そもそも人がいなかった。大規模な研究室であるために却って組織や部屋が分散しており、いちいちまとまって何かを催すことが無いようだった。私は時間を拘束されることが苦手なので、本来ならばこのような環境は理想的と言ってもよかった。ただし、進捗の有無が自分に任される環境は、自ら動くことが難しくなる鬱状態において悪く作用した可能性が無かったとは言い切れない。
当然ながら進みは悪く、一週間のうちで研究室に足を運ぶのは二、三回程度、行っても席で寝ているだけで進展がないということはざらだった。私自身に焦りはなかったが、TAや担当教員が焦っていたのは少し申し訳なかったと今でも思う(TAや教員は本当にいい人で、進みの遅い研究をいつも心配してくれていた。人間関係に関しては恵まれており、問題はなかった)。
結果から言えば卒論研究は断念したわけだが、「成果が出せない」という形で鬱状態の兆しが明確に見られたのは輪講演習においてである。輪講とは一人一つ論文を読んで内容をスライドにまとめて発表するという勉強会だが、私はなかなか自分の担当分を完成させられなかった。研究室に最も長く滞在したのはこの輪講の準備をしていたときであり、終電まで作業をしていたり、休日にも研究室に出向くことがあった。結局、疾病を理由に延期してもらい、一ヶ月遅れでなんとか完遂した。
詳しくは後述するが、輪講の準備ができなかった主な理由は物事を選択できない症状にあったと思う。時間的に論文の内容全てを伝えることはできないので、発表者の裁量で重要な部分を圧縮して伝えるのだが、どこを拾ってどこを捨てるべきかという選択が出来なかったのだ。私が製作したスライドは五十枚以上に渡り、二十四分の発表時間の中では大半を飛ばすという結果に終わった(スライドの量が多すぎることに気付いたのは前日に発表練習をしていたときであり、それまでは多いとは思わなかったので、発表自体に不慣れであったこともあろうが)。
十一月頃から「それらしい症状」、つまり健全な心理状態のアップダウンの範囲では説明できないという意味で異常な行動や状態が出始める。
まず、とにかく選択が出来なくなった。お腹が空いても何を食べるか決定できないので食事を抜くことになったり、本を買おうと思って本屋に行っても購入という決断ができないため何も買わずに帰るという事態が頻発した。「パスタ」と「ラーメン」のどちらを食べるかというような"A or B"の選択だけではなく、本を「買う」か「否」かという"DO or NOT"の選択も出来なくなるため、家では何もせずにベッドの中で寝転がっていることが多くなった。
このときの独特の心理状態については興味深いのでもう少し詳しく書いておきたい。

そもそも、選択という行為は、選択肢のどちらを選んだとしても大なり小なりプラスの効用があるという前提がある(一方が常に良いに決まっている状況での判断を選択とは呼ばない)。本を買うか否かというケースで例を挙げると、本を買った場合、内容を知るなり知識を得るなりという利益が得られる。反面、本を買わなかった場合でも、金を節約できるという効用はある。例えばもし本の内容が取るに足らないものであった場合は、「買わない方がよかった」という感想にもなろう。
どちらの選択肢にも評価すべき点があるというのがポイントなのだ。正常な状態においては、それぞれの選択の便益を適切に重みづけしてどちらかを選ぶということで決断が可能になるが、鬱状態では、この「便益の重みづけ」が破綻する。
どちらの便益も無限大に発散してしまい、それはそのまま決断しようとする手を止める抑止力になるのだ。例えば"A or B"という選択でひとまずAを選ぼうとしたとする。するとその瞬間、Bが自らの便益を強く主張してくる。その主張はAを超える大きさであるため、B>Aという構図になり、Aに伸ばした手を止めてBに伸ばす。しかし今度はAの方が良いのではないかという疑念が強力に持ち上がり、再び不等式が逆転すると共に、伸ばした手がAに戻る。この繰り返しだ。決断の刹那に評価が逆転することで、無限に双方の間を彷徨うデッドロック状態が成立する。
お腹が空いているのに食事が取れないという異常状態はこれで説明できる。決して食事をする気力がなかったわけではない。確かに気力が大きく削がれていた面はあるが、実際に体験した感想としては、決断に必要なエネルギーが足りないというだけの説明は片手落ちなように思われる。無限に不等式が逆転することで成立するデッドロックがキモだ。
ところで、このように自分を客観視した記述は現在の一応健康な状態からの後付けではないかと思われるかもしれないが、当時から「面白い」と思った症状については記録を付けていたのでそれはない。鬱症状のさなかにあっても、主体としての自分と客体としての自分は一貫して存在していた。つまり、「辛いなあ」と一次的直接的な感覚で体験している自分と、「今辛いと思っているなあ」と二次的客観的な視点で俯瞰する自分がいた。後者が鬱症状に影響を受けていないとは全く言い切れないが、とにかくそちらの側から自らを観測・記録することは常に可能だった。
さて、この選択不能状態に加えて、体力の異常な低下という症状も徐々に出始める。大学への行き帰りの途中で歩く体力がなくなってしまい、道の真ん中で立ち止まったり、駅のベンチでしばらく休憩しなければ再び歩き出せないということが頻発した。一番酷いときには、登下校に普段の倍の時間がかかっていた。
ちなみに、最もありきたりな鬱の症状として希死念慮も確かにあったが、これに関しては異常な心理状態だったとは今も思わない。これは死生観の問題だ。私は正常な心理状態においても「死亡」を最悪な状態ではなく、精々プラスマイナスゼロのフラットな状態だと考えている。よって、現在の状態が強いマイナスである場合は自殺することで振れ幅をゼロに戻すことは、差分としてはプラスの便益を得られる行動であり、おかしな選択だとは思わない。むしろ注目すべきは明らかなマイナス状態にあって自殺を押しとどめた要素が何かという点だが、今は省略する。
進まない卒論研究の傍らで選択不能と体力の低下が続き、これは何かおかしいぞと思って十一月中旬頃に精神科に相談する。
相手が付き合いの長い担当医ということもあって即座に薬が処方されたが、私はどうしてもそれを飲みたくなかった。頭に作用する薬には強い恐怖があったからだ。東大に合格するくらいなのだから、私は自分の頭に対してはかなり信頼を置いている。個体としての唯一のアドバンテージと言ってもいい。それを侵す可能性が僅かでもある行為に自ら進むのは相当な勇気が要る。平時ですらかなり迷うだろう決断を鬱特有の選択不能状態で下せるはずもなく、最終的に初めて薬を飲んだのは一月に入ってからだった。
薬の服用を決意した理由は二点ある。
一つは症状がどんどん悪化し、遂に発作のようなものが出るようになったことだ。何か漠然とした苦痛が湧き上がってきて、うめき声を上げたり壁に頭をぶつけたりしなければ耐えられないということが起こってきた。これは喉元過ぎれば熱さ忘れるという類の苦しみなので今具体的に想像することはできないのだが、当時医者に語った私自身の言を思い出すと、「足の小指を箪笥にぶつけた人が床でばたばたともがくのと同じように、何か他のことをして誤魔化さなければ耐えがたい痛み、の精神バージョン」だった。
もう一つは友人と呑みに行ったことである。関西から用事があって友人が来たので、共通の知り合いを交えて秋葉原の居酒屋で酒を呑んで串焼きやモツ煮込みを食った。何が決定的に効いたのかは定かではないが、これによって症状が一時的に回復し、症状も概ね解消された。これは二日ほどで戻ってしまったのだが、一瞬でも快適な状態に戻ったことで今までが相当な異常状態であったことを認識し、治療が必要であると決意するに至った。
ちなみに、最も酷い時期でも対人関係の弱体化は起こらず、普通に友人を誘って焼肉に行ったりしていた。このことから私は自分がいわゆる仮面うつ病ではないかと疑っていた(これを根拠にして抗うつ剤の服用を拒否していたところもある)のだが、医者によれば「重要なのは何が辛うじて出来るかではなく何が出来なくなっているか」ということだった。

 

3.治療
薬を飲むのとほぼ同時期に卒論のリタイアと休学を決めた。なお、休学の理由は鬱病というよりは学費節約という方が大きい(東大は国立なので、休学中は学費がかからない)。卒論以外の単位は全て揃っているので、夏学期に大学に行ってもやることがないのだ。正常の状態だったとしても卒業に必要のない単位を揃えるほど私は勤勉な学生ではない。
薬の効用の前に、副作用が色々あった。
まず吐き気。薬を初めて飲んだ日はまだ卒論を続ける気でいたので大学に行き、やる気が出ないので図書室で寝ていたのだが、起きたときに猛烈な吐き気がして驚いた。口を開けば嘔吐するのではないかというほどで、喋ることができないのでそのまま帰ったのを覚えている(吐き気が無くてもそのまま帰っていたと思うが)。
あとは眠気。ただ眠いというだけだが、吐き気と組み合わさると欠伸と同時に吐き気も覚えるという独特の感覚が味わえる。これも結構面白かった。
不眠症状も起きた。眠気があるのに不眠?と思うかもしれないが、この二つは同時に起きうるということを、私もこのとき初めて知った。眠気があるのに眠れない状態になるのだ。例えば、どっぷり夜更かしをした翌日、午前は眠くてたまらず、昼休みに時間が取れたので午後の活動に向けて仮眠をしておこうと思って机に突っ伏してみると、寝よう寝ようと思っているせいか、妙に意識が冴えて目がシバシバして眠れないという経験は誰にでもあるだろう。あの状態が持続するというのが恐らく最も近い。そしてあの状態と同様に、相当きつい。副作用の中で一番きつかったのは眠気と不眠のコンボだ。
性機能障害も起きた。特筆するようなことはないが、性欲が減退し、身体的にも勃たない。
もっとも、いずれの症状も思い悩むほど深刻なものではなかったので、比較的軽いものだったと思う。今も抗うつ剤を服用してはいるが、副作用は全て消失している。
幸いなことに、薬を飲み始めてから鬱は一直線に軽快に向かっている。これが薬のおかげか休学を決めて家でゆっくりしているからかはわからないが、いずれにせよ寛解過程についてはただ良くなったというだけであまり書くことがない。心配していたような薬の悪影響(副作用という意味ではなく、脳に不可逆な変化が加わり思考能力や信条に影響を及ぼすのではないかという疑念)も特になく、今は月に何度か精神科に行って減薬しながら経過を見ているという状態である。

 

おわり

絶対IDOL

「押」→「何か」。

押しボタンというのはこの世に数多ある因果システムの一つだ。その全てが人為の創作物であり、「何か」→「何か」という因果関係を「押」→「何か」に改変したケースがそれである。

炊飯器のスイッチ、つまり、炊飯の開始手続きが押しボタンである必要はない。凹凸端子で電気系統の配線を繋いでスタートとしてもよいが、誰もそんなデザインはしない。「炊飯」と書いたボタンを付け、その出っ張りを押し込むという動作に因果の源流を集約し、そこから求める結果がもたらされるように装置を設計する。因果を構築するにあたってボタンを用いるというのが人類の間に浸透した一つの流儀であり、押せば何かが起こるというのがボタンの機能的な定義である。

「では、実際に……」

軍手をはめた右手で、赤黒く錆びたボタンを押した。

このボタンは直接的には電気回路を繋いでバルブを開閉する起動スイッチであるが、もちろん実際に構築されている因果系は電気的なものに留まらない。ネットルームの個室ほどの大きさの箱とプラスチックの貯蔵タンクを繋ぐパイプのバルブが開くと、パイプを通じて貯蔵タンクから箱の中へ一酸化炭素ガスが流れ込む。一酸化炭素は空気と同程度の比重を持つため、箱の中でほぼ均等に混じり合って全体に漂う。箱の中には十数匹の犬猫が押し込まれており、バルブからガスが流入すると、犬猫の体内にもそれが侵入する。血液中に取り込まれた一酸化炭素赤血球と結合して酸素の循環を妨害すると、犬たちは大きく叫んで走り回ったり鼻をもたげたりするが、これはシステムという面から見れば副産物的なノイズであろう。メインの最終出力は、全ての犬が糞尿を垂れ流して微動だにしなくなることである。

つまり「押」→「死」がこのシステム、ドリームボックスの全貌である。

押しボタンシステムの動作は終わったが、施設職員である彼女にはその後始末をする義務がある。専用の鉄棒で死体を台車に追いやったあと、ホースでドリームボックスの中に水をぶちまけ、糞尿を洗い流していく。清掃を終えたら、台車を焼却炉に運ぶ。中身を炉の中に放り込むと、もう一度ドリームボックスの前に戻り、電気系を全て落としてから、事務室に戻って腰かけた。作業着のまま、備え付けのメーカーからコーヒーを入れて一息吐く。

「ふー」

彼女は殺処分場職員という自らの職業を天職だと思っていた。

人には向き不向きがある。動物を救う仕事に向いているのは動物好きな人間だが、動物を処分する仕事には動物嫌いの方が向いている。好きだと殺せない、無関心だと飽きてしまう。嫌いだから殺せるし飽きない。嫌いというのも一つの才能である。

ただ、例えばゲーム好きだからというだけでゲーム会社で働けるわけではない。現実に職を得るための道は険しい。対外的には市立公共施設職員という立場を勝ち取るため、公務員試験の勉強や面接などと人並み以上の努力を重ねているうちに、彼女には当初とはまた違った考えが生まれてきていた。

そもそも、嫌いというのは好きというのと大して違わないのではないか。対象に対する感情表現の違いはフォームの違いであって、コンテントの違いではないのではないか。猫を見ると他人は撫でようとするが、私は尻尾を切り取ろうとする。そういう、具体的に何を選んだかという情報は、パラグマティックに並ぶ要素からどれを抜き取ったかというだけの話だ。「花」と言われて日本人は桜を思い浮かべるが、米国人はroseを想像するのと同じで、そんな違いはあまり重要ではないのだ。真に重要なのは、抜き取る意志が存在するという点、つまり、対象に大きな興味があるという点である。

フレッシュの封を開け、カップの上で素早く横に移動させながらひっくり返した。フレッシュから零れた人工ミルクはコーヒーの上に鋭い直線を描くが、すぐに滲んで毛の生えた猫の尻尾のようになってしまう。

「うん、よく出来てる」

尻尾作りは一人でコーヒーを飲むときに必ず行う遊びであるだけではなく、彼女が学生時代から続けている趣味の一つだった。彼女が一人暮らしをする家の箪笥の一番下の段には、防腐加工を施した猫の尻尾が何百本も詰まっているのだ。コーヒーの上ではミルクを垂らすだけで済む作業も、現実の上では街中に生息する猫から尻尾を採取する手間が必要になる。

猫の尻尾など簡単に切れそうなものだが、実際のところ職人芸とも言うべきコツが要る。そもそも猫の尻尾には尾椎という立派な骨が入っており、下手に切り込むと骨が邪魔して途中でハサミが止まってしまう。ならばと骨を避けて根元から切り取ろうとしても、骨盤と尾椎の繋ぎ目は身体の奥深くにあるのでそれも難しい。結局、複数の骨が連結している尾椎の中から一番弱そうな部分を狙うことになるのだが、今度は長さと難易度のトレードオフが問題になる。尾椎は先端に行くほど細く脆くなるので切りやすいが、切り取った尻尾があまりにも短いと格好が付かない。切断できそうな範囲の中で最も長く切り取れる箇所を見極め、逃げられないように一撃でバッサリ切らなければならない。作業は鋏の質や猫の体調にも左右され、一朝一夕ではとても身に付かない。

ぼんやりと思い出に耽っていると、スピーカーから終業を告げるサイレンが鳴って彼女の頭の上から猫の尻尾をかき消した。居座っていたところで残業代など出ないし、今日は飲み会があったはずだから急いで着替えて行かなければならない。彼女は一息でコーヒーを飲み干して更衣室に向かった。

彼女が立ち上がった椅子からは、何匹ものカタツムリが床に落ちてボトボトと音を立てた。

******

妹と並んでベッドに入り、電気を消した。

好きで一緒に寝るような仲良しではない。消去法だ。少し居住者が増えたからといって家具を買い足すわけもなく、睡眠スペースは寝室のベッドとリビングのソファーの二つしかない。今では自分と妹は前者、みやすんは後者で寝ることになっている。

「そういえばさあ、一週間前に教会に行ったよね」

本来一人用のベッドなので妹の声がやたら近い。比較的小柄なみやすんが一人でソファーを占領する権利を得ているのは、このベッドの狭さによるところが大きかった。この距離でみやすんと並ぶのは無理だ。起き抜けで眼前数センチにみやすんの眼球があるとなると、宝くじにでも当たらない限り、その日は人生最悪のものになるだろう。

「そんとき、キリはなんか言ってた?」

妹が他人を気にかけるのは珍しい。記憶を掘り起こし、会話をダイジェストで伝えた。とはいっても、妹に話せるのは世の中には二種類か三種類の人間がいるという部分くらいで、蜘蛛の少女が妹を含めた他の人間をどう思っていたかについては黙っておいた。サシでの会話をまた別の他人に話すという行為はあまり褒められたものではなく、せめて少しでも人間関係を歪める可能性があることは言わないでおくべきだという配慮によるものだったが、元々良好な仲ではないようだし、あまり気にすることはないのかもしれない。

「私だって、無差別っていうわけじゃないんだけどね。逆っていうかね」

実際、妹は自身が批難されていたことにもすぐに勘付いてしまったようだった。

「逆?」

「キリちゃんが条件付きで人をバットで殴れるってことは、裏を返せば原則殴れないってことだよね。それとは逆で、原則殴れるけど、条件付きで殴れないケースもあるっていう意味だね」

確かに、一週間前は思い至らなかったが、そういうケースもあるか。それを加えて四つというのがフェアかもしれない。黒地に白インクで描いた絵と、白地に黒インクで描いた絵の印象はだいぶ違う。つまり、

Ⅰ.無条件で他人を殴れるひと。

Ⅱ.基本的に他人を殴れるが、条件付きで殴れないひと。

Ⅲ.基本的に他人を殴れないが、条件付きで殴れるひと。

Ⅳ.無条件で他人を殴れないひと。

妹は原則殴れるのか、と聞こうとしたとき妹はもう寝息を立てていた。

姉妹にしては似ていないと言われることが多いが、それは寝つきについても同じだった。妹の眠りは迅速で深く、中途覚醒するのを見たことが無い。羨みながら布団を被ったとき、アパートのチャイムが鳴った。

「……」

時計を見る、夜の十一時。女性の三人暮らしということを考えれば無視すべきかと思ったが、向こうも何か差し迫った事情で非常識を承知で来ているかもしれない。仮にそうだとして、緊急の駆け込みを蹴ること自体への罪悪感はないが、来訪者はもう二度三度くらいはチャイムを押してくるかもしれず、しばらく自分が眠れないという以上にすやすや寝ている妹に悪い気がした。滅多なことでは起きないとはいえ、横で寝息を立てている人間を守るのは起きている者の仕事ではなかろうか。

なんとなく湧いた使命感に突き動かされ、結局ベッドを降りてしまった。物理的な距離が近いと人間は必要以上に共感的になってしまうのかもしれない、と考えながらドアを開ける。

「あ、もう寝てしまったかと思いました。夜分遅くすみませんね」

「本当だよ」

振り返る格好のみやすんと目が合った。アパートの階段を下りかけているところを見ると、チャイム一回で諦めて帰ろうとしていたのだろう。開けなければよかった、と早くも強く後悔する。

みやすんには鍵を渡してあるので、ただ帰ってくるだけならばチャイムを鳴らす必要はない。鍵を紛失したとか、玄関先で済ませたい用事があったとか、色々と可能性は思い浮かぶが、いずれにせよ特殊な事情が……恐らく、廊下まで戻ってきたみやすんの後ろにもう二人の少女が控えているのと関係がある事情があるのだろう。

「あの……お久しぶりです」

「どうもーっす」

よく見れば、二人とも見覚えのある面子だった。

手前には、先日教会を襲撃した蜘蛛の少女。今日はバットを持っておらず、赤黒チェックの丈の短いワンピースによく似合う小さなポーチだけを持っている。動きやすい(襲撃しやすい)ざっくりした服装だった先日とはかなり印象が違い、可愛らしい年頃の女の子という雰囲気だった。それに伴ってか、やや俯いて少しもじもじとしているが、夜中に他人の家の門を叩くくらいで緊張するような性質とは思えない。

奥側には、同日にたまたま鉢合わせ、みやすんが友達と自称してみせた、ポニーテールの少女。こちらはこの前会ったときと同じような服装だ。ノースリーブに短パン、そしてリュックサック。同じようなというか、全く同じなのかもしれない。向かい合って観察した印象も初対面とあまり変わらない。細身の身体は筋肉質で、立ち姿も様になっている。軽く胸を張って、両足に等しく体重をかけバランスよく直立しているというだけのことだが、無意識に行うのは結構難しいものだ。少なくとも何かスポ―ツをしているのは間違いないと見える。

「君たち、知り合いだったんだ」

「はい。こっちがキリで、そっちがぴよちゃん」

みやすんは手前、奥と目線を散らした。『キリ』というのは普通にニックネームだったらしい。たぶん一人称の変形だから二人称として他人が呼称する際に用いるのは不適切なのではないかなどと無駄に気を回して損をした。

一応自分も名乗ったが、改まって自己紹介をするほどの仲でも気分でもない。向こう全員が知り合いなのであれば、私と彼女たちそれぞれの関係(というほど深いものではないが)も共有していることだろう。早く本題に入れとみやすんに目配せすると、再び目が合ってしまって更に気分が悪くなった。

「今、暇ですかね?」

悪いイベントが立て続けに起こって気が滅入っている中、誘いとしては最悪なフレーズを受けてもうドアを閉めてやろうかと思う。相手がみやすん一人ならそうしていただろうが、ほぼ初対面に近い二人もいるとなると乱暴な態度を取るのは少し気遅れする。

「要件による」

「えーと、良ければ一緒に夜遊びしませんか」

「冗談はいいよ。そうでなければ、もっと正確に」

「いやいや、言葉通りです。そうですね、もう少し正確に言うと、子供が夜遊びするための保護者が必要なんですよね。蛆のお姉さんは成人してますし、一緒に遊べるくらいには子供なので、どうかなーということなんですけど」

微妙に上から目線の説明にくらくらする。得体の知れないみやすんのことだし、突拍子の無い話が来ても動じないつもりでいたが、保護者としてにせよ、遊び相手としてにせよ、そんな事情で求められるというのは予想外だ。そして俄然気になるのは、彼女の子供という自称である。

「君たち何歳?」

「平均で十六っすねー」

横から『ぴよちゃん』が答える。十六というのは高校に入りたてくらいか。みやすんは異質すぎて年齢不詳なところがあったが、他の二人が十六から大きく外れているとは思えないし、大体同じくらいだろう。誰も嘘を吐いていなければの話だが。

「なんで今日に限って保護者が要るのかな」

「普段はみやすんの従姉さんにお願いしてたんすけど、今日は仕事が忙しくて来られないってことなんで。色々と融通が利きそうな大人の知り合いってそうそういないっすよ。親世代だとさすがにアレっすよねー」

話を聞けば聞くほど胡散臭さが増していく。夜遊びなど不良の遊びだから楽しいわけで、律儀に保護者を求める彼女たちの行動は根本的にぼちぼち矛盾している。百歩譲って彼女たちが底抜けの良い子ちゃんズだとしても、親世代を連れて行くのは「流石に違う」という程度の夜遊びのコモンセンスは持っているわけだ。ならば、保護者がいないという事態になれば大人しく引っ込むのではなくそれでも突貫していくのが夜遊びの流儀だろう。

そんな状況でわざわざ誘いをかけた私に対しては、やはり保護者というよりは遊び相手としての立場が求められているのだろうか。そもそも保護者という概念、遊び相手という概念は彼女たちにとって完全に分かれて存在しているわけではなく、かといって一直線上に連続しているわけでもなく、両方を併せ持つことが許された独立したパラメータなのかもしれない。

「……」

しばらく考えた末、結局私は再び折れた。三人の少女たちと夜の街に出かけることにしたのだ。

暇なのは確かだし、そこまで面倒なわけでもない。せっかく助けを求めてきた彼女たちを邪険にするのは気が引けるというよりは、どこまでが建前でどこからが本音なのかがよくわからなかったというのが大きい。本音では遊び相手を求めていたのであれば、それはどちらかといえば好意に属する申し出なのだろう。

適当に着替えた上に薄い青のパーカーを羽織り、案内されるままに歩き出す。

道すがら、四人パーティーは自然と二人ずつ前後に分かれる形になった。前を行くぴよちゃんとキリは本当にとりとめのないことを話しており、その会話のつまらなさと自然さから察するに、彼女たちが元々知り合いであるというのは嘘ではないようだった。

私とみやすんは無言のままで姦しい二人の後ろを付いていく。意識してみれば、みやすんは私よりも頭一つ背が低い。覗き込まない限り目線が合わないくらいの身長差があり、最も警戒すべき彼女の眼球から距離を取れているのは良いとしても、そんな位置関係自体にはなんとなく嫌な感じを覚えた。物理的に背が上になるのは仕方ないが、形式上は保護者として同伴している今、彼女より立場も上になりうるという構図が凄く嫌だった。

この居心地の悪さは、たかが神主を神か何かと勘違いしているタイプの参拝者が必要以上にへりくだって何かを要求してきたときのちょっとした不愉快さに似ていた。立場には責任が伴う。私が承認していないにも関わらず、相手がこちらを必要以上に立てるというのは、根拠も見返りも無い責任が押し付けられるのと同じことだ。それを喜びとかやりがいに転化できる人間もいるかもしれないが、私は全くそうではない。

せっかく遊びに行くのにわだかまりを持っているのはあまりよくない。目的地に到着するまでにはどうにかして解決しなければならないと思い、何気ない風を装って切り出してみた。

「みやすん」

「はい?」

「終わったらアイス奢ってよ」

「わかってますよ。借りは返します」

当然のような返しに安堵し、そこでようやく自分が何を嫌がっていたのか、何を危惧していたのかをはっきりと理解した。

私はみやすんの保護者になりたくなかったのだ。別に遊び相手になりたいわけではなかったが、少なくとも保護者にだけは絶対になりたくなかった。一応大人として契約している部屋で子供の彼女を泊めている身だし、少し間違えればそこのボーダーはすぐに踏み越えてしまう。私とみやすんはそういう関係ではない。保護者ではないから、彼女を守る義務も導く義務もない。彼女が妹にボコボコにされているからといって止めなくてもよいし、居候だからという理由で金を巻き上げてもいい。出ていけば止めない。普段何をしているかも知らない。仮にみやすんが万引きや置き石をしていようとも説教などしない。みやすんの人生など知ったことではない。それは私の管轄ではない。

ささやかな見返りを要求することは、利害が一致しなければ動かないという無関係者を装うための必要条件だった。形だけでも貸し借りという対面を保たなければ、私は本当に善意で彼女らを監督する優しいお姉さんになってしまう。多分、みやすんもそのあたりをわかってくれているのだろう。

「みやすん、結構いいやつ?」

「冗談はよしてください」

全くだ。

 

二十分程歩いて到着したのは、いかにも夜遊びに適した繁華街だった。夜中だというのに見渡す限りに灯りが点いており、シャッターを下ろしている店はほとんど見当たらない。こういう街が近所にあることは知っていたが、今まで用事がなかったので足を踏み入れたことはなかった。

そんな中、我らがグループが足を止めたのはかなり地味な建物の前だった。小さな扉が一つ付いている以外には全ての窓に鉄格子のようなものが固定されており、いかにも怪しく、アクセサリー店や飲食店でないことは明らかだ。そもそもほとんど人気の無い通りに面しており、看板や貼り紙のようなものも一切ない。予約制なのか、裏口なのか、そもそも営業店の類ではないのか。

先頭のぴよちゃんが慣れた手つきでポケットから鍵を取り出し、扉の鍵を開けた。ぞろぞろと中に入り、狭い階段を降りていく。階段の先の突き当たりにはドアを改造した窓口のようなものがあり、暗くてよく見えないが、その奥には人がいるようだった。みやすんが手を挙げて軽く挨拶するのに応じ、ガチャリと鍵が空いた。

「ではでは行くっすよー」

気の抜ける声と共に、ぴよちゃんがそのドアを開けた。

瞬間、溢れんばかりの光と音が飛び込んで来る。うるさい、そして眩しい。しばらく暗い場所にいたということを差し引いても、尋常ではない刺激だった。

何が何やらわからないまま目と耳を片手ずつガードしていると、後ろからみやすんに押し込まれ、安っぽいパイプ椅子に座らされた。しばらく呼吸を整えてからガードを外し、そこでようやく現在の状況を認識した。

ステージ、観客、ポップミュージック。そしてライトアップされたアイドル……

「ライブ会場です、いわゆる地下アイドルの。座っているだけで良いので楽しんでくださいね」

隣に座っているキリが案内係のようなことを言う。確かに、ここはライブ会場だ。しかし、座っている場所が少し妙であることに気が付いた。

アイドルが踊ったり観客が熱狂したりしているのは一つ下の階で、今自分がいるのはロフトのように突き出た上階だ。仕切りガラスのようなものは存在せず、空間的に接続されているとはいえ、参加するというよりは見下ろしているだけ。客の密度も段違いで、寿司詰めになっている下階と違って、上階で並べられたパイプ椅子に座った客は自分たちを含めても十人程度しかいなかった。

「……」

改めて女子中高生三人組を確認する。ぴよちゃん、キリ、私を挟んでみやすんという順番でパイプ椅子に並んでいる彼女たちは早速楽しんで見ているようだったが、目を輝かせたり身を乗り出したりする程度で、下の観客のようにコールに応じたりサイリウムを降り始めることはない。

ひょっとしたら、あまり人混みに揉まれたくない人向けの席なのかもしれない。熱気の中で一体になって楽しむ人もいれば、一歩引いた位置から落ち着いて見守るのが好きな人もいるのだろう。いずれにせよ、混雑が苦手な自分にとっては好都合だった。もし下階に入場していたら、気分が悪くなってすぐに帰る羽目になっていたかもしれない。

「アイドルは嫌いでしたか?」

考え込んでいる顔が不機嫌に見えたのか、キリが心配そうに囁いてきた。

「あんまり興味はないかな」

「そうですか……」

「別に嫌いなわけじゃないよ。今まで特に触れる機会が無かっただけで」

落ち込んだキリの顔がパッと輝いた。こいつと話すと、らしくないフォローばかりしている気がする。バツが悪くなって目を逸らし、ステージに向き直った。

他のライブ会場を知らないので推測に過ぎないが、ここはそれなりに立派な施設であるように思われた。アイドルがパフォーマンスするステージは十分に広く、照らすライトは変幻自在に色を変え、小さなライトがメンバーの姿を追うなど、裏方の仕事も丁寧だ。マイクやスピーカーにも管理が行き届いており、アイドルと観客の掛け合いがやりやすいように逐一音量が調節されているのがわかった。

登場する地下アイドルたちはソロだったりグループだったりするが、ステージに上がっては一組あたり五分か十分歌って踊って去っていく。もちろん一人も知らなかったが、出てくる女の子たちはそれなりに顔が良いし、パフォーマンスのクオリティもテレビで見るようなものと遜色ないような気がした。どのアイドルも差別化のために個性的な衣装やキャラクター性を押し出しており、見ていて飽きない。

しばらくステージを見て、ふと時計を確認すると既に深夜一時を回っていた。終電が完全に無くなる時間だが、徹夜のイベントなのだろうか。いつまでやってるの、とみやすんに聞こうと思って左を向くと、そこには誰にもいなかった。

代わりに、少し離れたところで壁によりかかってステージを見下ろしている女性と目が合う。彼女は手に持った煙草の先で、席を指し示して口を開いた。

「隣、いーですか?」

「どうぞ」

みやすんが座っていた席だが、どうでもいいだろう。

「どーもどーも」

女性は携帯灰皿で煙草を揉み消し、その席にドカッと腰掛けた。座った衝撃で椅子が軽く揺れ、何か茶色いものがポトリと落下するのが見えた。

背中を丸めて確認すると、巻貝が二つ床に落ちている。それは扁平で綺麗な渦模様を巻いており、アンモナイトの化石のように見えた。座った女性がそれに気を払う様子は無いが、落としたことに気付いていないのかもしれない。キーホルダーか何かだろうか、と拾おうとして手を伸ばすと、二つの巻貝が同時に震えた。中から触覚が顔を出し、それぞれ別の方向へとゆっくりと這っていく。

いくら地下とはいえ、カタツムリがウヨウヨいるような汚さではない。いい加減、この事態にも慣れてきた。湧いてくるわけだ、またしても。

「ああ、拾おーとしてくれたんですか。大丈夫ですよー、すいませんね」

上から声が降ってくる。そうですか、と言って顔を上げると、覗き込んできた彼女と至近距離で目が合った。

近くで見ると、彼女の眼球は異質だった。黒目と白目の彼方、虹彩の奥に何かが渦巻いている。それを何と言ったものかわからないが、癒着させる液のようなもの……よく練った納豆から豆を取り除いて残った糸、乾きかけている接着剤を引き剥がしたときに残るベタベタ……そういう粘度の液体を集めて海にしたようなものが滞留していた。

それはみやすんの眼球によく似ていたが、みやすんのものと比べると積極性に欠けていて、こちらの身体に侵食してまとわりついてくるような湿度は感じられなかった。どちらかといえば嫌な印象ではあるが、あの強烈な不快感は存在しない。ただ、目の奥から感じる粘り気はみやすんのものよりも大きく増しており、粘度が高いが故に他人に絡みつくような流動性を失っているのかもしれない。

よく彼女を見れば、顔もみやすんに少し似ていた。髪質やその色、人を食ったような口元。ただ、身長はみやすんよりも大分大きく、顔付きも明らかに成人女性のもので、総合してみやすん(大)という雰囲気だ。そういえば、ナメクジとカタツムリもよく似ている。

そんな諸々の印象に対し、ここまで得た情報の中でぴったりと思い当たるところがある。

「……私のこと知ってますか? 例えば、知り合いの従姉だったりして」

「あら、鋭いですね、そのとーりです! おーい」

女性が私を跨いでキリとぴよちゃんに声をかけると、二人とも軽く手を振り返してみせた。

「今日は仕事で来られないんじゃなかったんすか?」

「予定より早く終わったのよ」

「へー、順調だったんすね」

「逆。仕事っていうか、飲み会だったから。盛り上がらなかったってこと」

言われてみれば、彼女からは若干アルコールの臭いがする。多少酩酊して饒舌になっているようだったが、普段から比較的テンションの高い人間なのだろうという気がした。

「そーいうわけなんで、年上同士仲良くしましょーね」

「はあ」

差し出された手を握ると、みやすん(大)の手は思ったよりも遥かに柔らかかった……などと思ったのは一瞬のことだった。

それは柔軟どころではなく、握手で生じた圧力によって、粘土のように形を変えた。私の指先が彼女の体内へとめり込み、ひんやりとした感覚が手の先端を覆った。

驚いて手元を見ると、私が握っているのは人間の指ではなく、カタツムリの塊だった。粘液で結合し、それぞれの境すらも曖昧になったカタツムリの群れ。それに指が食い込んでいくにつれ、ヌメヌメとした軟体部に混じって、殻の堅い感触もする。

得体のしれない現象に抵抗する間もなく、カタツムリが爪と指の間からこちらの体内へと入り込んできた。指先から腕に至る血管の中を、カタツムリの殻のパキパキとした感覚が通過していくのがわかる。私がカタツムリの群れに手を埋めたように、カタツムリもまた私の中へ侵入しているのだ。私と外界の境界はカタツムリによって崩され、私の腕もまたカタツムリの塊に変貌していく。腕が次々に書き換えられていく感覚は猛烈に不愉快で、全身に鳥肌が立った。その気持ち悪さはみやすんの眼球を覗き込んだときのそれと全く同質だが、私の身体の中に粘液を残すどころではなく、粘液の海の中へと誘い込み、同一化させようとする意志を持っていた。

「!」

カタツムリの奇妙な感触が体幹に達したとき、猛烈な勢いで私の腕が跳ねた。握手を振り払い、カタツムリを振り払うように真上へと持ち上がる。カタツムリの塊に変貌しつつある腕が自分の意志で制御できていたのかどうか自信がなく、この跳ね上げは熱した鍋に触れたときの条件反射に近い気がした。

直後、カタツムリに覆われていた部分の中心あたりから爆発的に蛆が湧いた。限界まで溜まっていたダムの堰が切られたように激しく、可能な限りの最速かつ最大分量であろうというスピードと量で腕から蛆が溢れ出す。私の腕全体を伝ってその全ての領域を源泉とした蛆の川が生じ、ビシャビシャと床に落ちて滝と滝壺を作った。無数の蛆は圧倒的な体積によって粘液による結合を分断し、カタツムリたちを次々に叩き落していく。それだけでなく、カタツムリは蛆虫に妨害されて新たに腕に取り付くこともできない。落下したカタツムリたちが蛆の津波に覆われてほとんど見えなくなった頃には、蛆の発生も止み、元の右腕の肌色が蛆の下から覗いた。

「はーっ、はーっ」

右腕の裏表を確認する。恐る恐る指を動かすと、表面に残っていた蛆を弾いて元の火傷痕の残った指先を視認できた。

これほどの量の蛆虫が一度に湧いたことは今までに無かった。彼女がそうかはわからないが、少なくとも彼女との接触は明確な脅威だ。蛆虫が湧くということはそういうことなのだ。みやすんと同類という時点で迂闊に心を許すべきではなかった。次の行動に気を払う余裕が無く、ひたすら息を整えていると、驚きと申し訳なさが混じった顔のみやすん(大)が缶コーヒーを両手で差し出してきた。

「ごめんごめん! こんなになるとは思ってなかった、いや本当に。これ、お詫び」

ひったくって一気に飲んだ。缶の外側に結露した水が指を濡らす。中身も限界まで冷えていた。恐らく今さっき自販機から買ってきたものだろうが、元から持っていたのか、私がカタツムリと戦っている間にそんな暇があったのか、気が動転していた間の時間感覚が全くわからない。そして反省した直後に無警戒に差し入れを飲んでいることに今更気付き、内心軽いショックを受けた。

「いやー、お近づきのしるしにと思って試しにカタツムリを撒いてみたらとんでもないことになってしまったな。私たち気が合うのかなー、なんて」

「カタツムリって他人の体内から湧くような蟲だっけ? それこそ蛆の仕事だと思うんだけど」

ナンパのような言い草を無視して質問をぶつけた。ペースを握られるべきではないという危機感によるものだったが、既にお互いに敬語を崩していることに気付く。

「うーん、湧くとか湧かないじゃなくて。例えば、カタツムリとかナメクジが気持ち悪いのってどこだと思う?」

答えを考えている間に、みやすん(大)も同じ缶コーヒーを開けて隣で飲み始めた。既に蛆虫もカタツムリも地面から消滅し、お互いの腕はまともな状態に戻っている。

「見た目とか、感触とか、全部」

「それ言ったら蛆もゴキブリも同じじゃない?」

「同じだと思うからそう言ってるんだけど」

「うーん、惜しい。三十点」

「正解は?」

「混じるのよ、ナメクジとカタツムリは。ナメクジが腕の上を這ったあとってヌメヌメした粘液が残るじゃん? その粘液とナメクジの身体の境がどこにあるのかはよくわからないしさ、這った後が全部寄生されたみたいな、混濁への抵抗感みたいなものがあるのよね」

確かに、ナメクジに触った痕は洗い流しても永遠に落ちないような独特の気持ち悪さがある。みやすんの眼を覗き込んだときに感じる嫌な気配もそんな感じだ。身体に入り込んで粘液を付着させていく。それは目の奥に取り付いて拭うことができず、いつか勝手に一体化してしまうのではないかという恐怖が生まれる。

「ナメクジとカタツムリは、蛆虫や蜘蛛と違って身体が固体じゃなくてゲルで出来ているからね。身体が曖昧ということは、境界が曖昧。境界が曖昧ということは、外界も曖昧。ちょっと間違えると、あなたを巻き込んで一体化してしまう的なことね」

みやすん(大)が話を締めくくったとき、ステージのライトが妖しい光を放った。

今は先程まで踊っていたグループがちょうど退場したところで、次のアイドルが登場するのだろうが、ステージの雰囲気が今までとは全く違った。赤や橙のいかにもアイドルらしい暖色のライトアップが紫や水色を基調とした寒色へと変わり、流れる音楽もポップなものから物悲しいものへと変わった。

「次に出てくるアイドルは変わり種系?」

「まーそーね。けど人気者よ。盛り上がっていこー」

黒を基調とした、メイド風のコスチュームを纏った少女がステージ奥から現れた。俯いた顔には他のアイドルと一線を画する硬質のオーラがあり、人気があるというのも納得できる。今まで興味の無いアイドルに対してはあまりステージを見ずに雑談に興じているような客もたくさんいたのだが、彼女が現れてからは全員が物音を立てずにステージを注視していた。

「注目されてるんだ」

「そりゃもう、ここのナンバーツーよ」

少女が歌い始めた。ダウナーなステージの雰囲気に合ったゆったりとした歌い出しだったが、すぐに激しいロックミュージックに転調し、突然女の子らしい健気な歌謡曲へと変わる、かと思えばエレクトリックな電気音が溢れ出し、次の瞬間にはサイケデリックへ、数秒ごとに音楽が移り変わる。

ステージを照らすライトも音楽に合わせて目まぐるしく変わっていくが、驚くべきはナンバーツーの少女だった。迷走する音楽に合わせて、一瞬たりとも遅れることなく、ただちにふさわしい歌を合わせていく。彼女の歌にはAメロBメロどころかサビすらなかった。ただ切り替わる曲に合わせて、歌っている曲を瞬時に別の曲へ乗り換えるのだ。「煩悶」という歌詞を子音のmでぶった切り、息継ぎすらせずに次の瞬間には洋楽を「classify」の二つ目のsから歌い出すというような離れ業をやってのけた。

再生される曲は完全に切り替わるわけでもなく、バラードを歌っている最中にメタルの音が入り込み、同時再生がかかるようなことも起こる。しかし、彼女はしっとりとした曲を歌いながら、激しい音に合わせて足を踏み鳴らすという器用な動きで完璧に対応した。同時再生は増えたり減ったりし、次々に混ざりあっていく。ただでさえ大量の曲が流れてくるのに、その組み合わせとなると、対応すべき状況は爆発的に増大する。そんな中でも、観客とコミュニケーションを取ることも忘れていない。ちょっとした間奏が挟まる隙間に片手で観客のコールを煽ってみせる、そのタイミングの取り方も驚異的だった。

様々な要素を取り入れ、それらを見事に調和させている……というわけでもなく、無限の細切れを無差別にグチャグチャにひたすら継ぎ接ぎしているという印象だった。面白いかどうかで言えば確実に面白い。無限にチャンネルをザッピングして混線させていくパフォーマンスから目が離せない。

「けど、これってアイドルというより、パフォーマーじゃない?」

「お、いいこというねー。でもあれはアイドルだよ。パフォーマーと違ってアイドルはファン……信者を集めてナンボなの。ほら、見てみ」

みやすん(大)がオペラグラスを差し出してきたので、とりあえず受け取って覗いた。

顕微鏡であれ双眼鏡であれ、拡大鏡を即座に合わせるのは難しい。少しずつ位置を調整する作業が必要になるわけだが、その途中で、舞台端で小さく動く、見覚えのある蟲を見つけた。舌打ちをして、今度こそアイドルに照準を合わせる。

「見えた?」

みやすん(大)が楽しそうに聞いてくる。

「おかげさまで」

「驚いた?」

「そこそこ」

みやすんだった。今、目の前でパフォーマンスをしているアイドルはあのみやすんだ。そして、ステージに無数に這っているのはナメクジだ。何故みやすんがアイドルを……などということはあまり気にならなかった。尋常ではないのがみやすんの特徴なので、そのくらいの奇抜さならむしろ持っている方がしっくり来るような気がする。実際、それがみやすんであるとわかった後も、パフォーマンスをするアイドルは相変わらず輝いて見えた。オペラグラスで拡大して見ても、優れた容姿と華奢な身体にコスチュームがよく映えていることがわかるだけだ。

今まで検証を試みたことなどなかったので気付かなかったが、みやすんの目は一方的に覗き込むだけならばほとんど不快感を催さないことがわかった。オペラグラスを挟んでいるというのもあるのかもしれないが、恐らくあの独特の粘りが発生するのはお互いに目が合ったときなのだろう。このような状況であれば、眼球のディスアドバンテージも打ち消すほどの魅力があるということなのかもしれない。

「正味、あんま驚いてないね?」

「まあ、目さえ合わなければ外見はいいし」

「それはちょっと違うね。ギャップ萌えでもない。正真正銘、あの目があるからみやすんはアイドルなのよ」

「マイナス査定じゃないってこと?」

「そーそー。見るだけでトラップできる眼球なんて、アイドルとしては理想的どころじゃない。アイドルに一番重要なのはファンの興味を惹けるかどうかで、最悪は無関心だけ。あ、みやすんよりは客席を見た方がいいかも」

彼女の言葉に従って、オペラグラスから目を外す。地の利を活かして場内全体を俯瞰すると、みやすんに注目している間にライブ会場は大変なことになっていた。

みやすんのパフォーマンスに熱狂している観客の身体の表面をナメクジが這い回り、人間同士を接着するかのように合間を埋めていく。その様は、先ほど幻視したカタツムリの群れに似ていた。カタツムリが粘液を介して塊になっていたように、観客たちがナメクジを介して一つの塊になっているように見えた。

「ナメクジもカタツムリも機能は同じだよ。眼球にトラップされたあとは、ナメクジが境界を壊してしまう。好きも嫌いも溶かしきって、じわじわと一体化してしまうのよ」

目の前では、カタツムリのときほど劇的ではないにせよ、徐々にナメクジが観客を溶かし始めていた。ナメクジに触れた表面から観客の身体が粘液に変わり、隣り合った観客同士で粘液が混ざり合い、その隙間を埋めていたナメクジはゲル状の身体へと置き換わっていく。会場全体でその変異は進行しており、会場全体を這い回るナメクジは百匹や二百匹では足りないほどだった。

ファントムの蟲たちにも生息地というか、湧きやすい場所があるのかもしれない。私と蛆虫にとっては神社、シスターとゴキブリにとっては(たぶん)教会が生息地であるように、恐らくみやすんとナメクジにとってはライブ会場がそれなのだ。

「何が良いんだろう……」

つい、そんな呟きが口から漏れた。私と蛆虫は、みやすん(大)のカタツムリを拒絶した。同じように、大量に湧いているナメクジを見ても魅力的だとは全く思えない。混ざるという特典があったところで、もたらされるのは嫌悪感だけだ。

「いまどき、一体化をはっきりと拒絶できる方が少数派なんじゃない? 何かに飲み込まれて生きていくのは楽なことだし、アイデンティティを死守しようとする人間なんて時代遅れっていうかさ。いや別に、私はどっちも良いとか悪いとか思ってないけどねー」

一部のナメクジは垂直な壁を這って二階まで上がってきていたが、こちらに近付こうとするナメクジは、ある線を境にしてそこから先に進めずにいた。そのラインに目を凝らすと、数匹の蜘蛛たちによって巨大なネットが張られているのがわかった。教会でキリが落ちてきたときと同じだ。網にかかったナメクジの動きは極めて遅くなり、元々ノロい歩みと合わせてほとんど進まなくなっているように見えているのだ。隣を見ると、キリはパイプ椅子三つほどの上に横になって寝息を立てていた。横たわる身体はぴよちゃんがいた席まで占領している。

網に絡み取られているナメクジの内の一匹に軽く触れると、少しだけ指が溶けて粘液と混ざり合った。やはりカタツムリのときほど激しくはないが、なるほど確かに同じ現象が起きているように感じる。もちろん境界面からはすぐに蛆が湧き、ナメクジによって崩された肌を修復した。

みやすんの継ぎ接ぎのパフォーマンスは続いている。客席の中には粘液が渦巻いており、観客たちは胡乱な目をしてそれに溶け込み、一つの塊になる寸前のように見えた。それは釜の中でぐつぐつと煮えているシチューに似ていた。一つの器の中で、とろりとしたスープの中に具材が溶け込み、一つの料理として成立しているかのように、ライブ会場の中で、ナメクジが発する粘液の中に観客が溶け込み、一つの何かになっているのだ。

もっとも、彼らの行く末など知ったことではない。私は保護者ではない。彼ら一人ひとりのそれではなければ、当然ながら社会に対するそれでもない。私にとっては、みやすんのパフォーマンスはそれなりに面白いというのが評価の全てだ。軽く伸びをしてステージに向き直ったとき。

「ワタシを見なさいっ!」

何の前触れもなく、突然スピーカーから命令の声が響き渡った。みやすんを妖しく照らしていたライトが落ち、サウンドがぶつりと切れた。

気付いたときには、サイドテールの少女がステージの中央に降り立っていた。白いシャツに赤を基調にした上着、臙脂色のスカート。頭には髪を片側で結ぶ山吹色の大きなリボンが映えている。彼女が着用しているのは正統派のアイドル衣装で、他のアイドルのように捻ったところが一つもなかった。王道を行く装飾が彼女の自信の現れであるということは、意志の強そうな切れ長の目を見れば明らかだ。

新しく現れた少女は、みやすんにいきなりの宣戦布告を繰り出した。

「もう十分でしょう。今日こそワタシと対決しましょう」

みやすんは歌うのを止めて、肩をすくめる。

「嫌です。私の次はあなたですし、もう譲ります」

「何よ、せっかくワタシが来たのに張り合い無いわね。アナタと決着を付けに来たんだけど」

「降伏です。あなたの勝ちです」

あまりにもやる気のないマイクパフォーマンスを見せたみやすんは、その場に体育座りをして拍手をし始めた。おちょくっているように見えた、というか実際そうなのだろう。乱入してきたアイドルは仕方ないというようにみやすんを真似て肩をすくめてみせたが、やる気のなさは全くコピーできておらず、気にしていない風を装っているだけで本当は腹立たしいというのが伝わってくる。

「あいつは何なの?突然割り込んできて」

「このイベントはハプニング上等だから、割り込みはオッケー。それがナンバーワンアイドルともなればなおさらね」

どちらかというとチャレンジャーっぽい登場の仕方だったが。

「そのナンバーワンの娘はなんて言うの?」

「THEXXX」

「ジグ……何?」

「ジグザクス。THEにXが3つ付いて、ジ・グザクス」

「ワタシを見なさいっ!」

もう一度、ジグザクスが咆哮した。それは単にバーバルな形式とは違って身体に直接訴えかける圧力を持っており、さすがナンバーワンはオーラがあるなあなどと考えていたが、彼女がパフォーマンスを始めると、その感想はほぼ的外れであったことがわかった。

ジグザクスはみやすんのステージを受け継ぎ、みやすんが流していた曲をそのまま使用した。ジグザクスがハンドサインで音響に何事かを伝えると、みやすんが使用していた無数の音楽は切れることがなくなった。ただし、新しい曲の再生は止まらない。流れる音楽の種類は減ることなく、次々に重なり合い、無限に混迷を増していく。

混沌とした多重音楽の中で、遂にジグザクスがマイクを構える。彼女はどの曲にも全く乗らず、媚びず、顧みず、全てを無視して自分の持ち歌と思しきものを歌い始める。どんな要素も掬い上げたみやすんとは正反対に、あらゆる背景を平等に無視し、ただ我だけを押し通そうとする意志。

ステージには彼女の歌だけが朗々と響いた。背景で流れる様々な音楽と、彼女の歌は同じくらいの音量だというのに、彼女の前では伴奏は存在しないのと同じだった。比喩ではなく、他の音など本当に聞こえない。彼女の歌は自身以外を無意味なものとして暴力的に棄却する力を持っていた。その独占は聴覚から始まり、視覚、触覚までにも及んだ。ステージに立つジグザクス以外の一切が見えなくなってくる。今実際に触れている椅子の感覚よりも、「もし彼女に触れたらどんな心地だろう」という、いつかあるかどうかもわからないあやふやな想像が優先される。

ナメクジの粘液に巻かれていた観客たちがジグザクスに向けてサイリウムを振ったり、歓声を上げたりし始めた。胡乱な目が生気を取り戻し、ジグザクスだけが彼らの復活した目に映る。それに伴ってナメクジが引いていき、観客と周囲との癒着も徐々に無くなっていく。粘液に溶け込む寸前だった観客たちは少しずつ本来の形を取り戻していった。

みやすんのライブは混ざり合うように観客を巻き込んだが、ザグザクスのライブはある種の根本的なヒエラルキーを観客に押し付けた。そもそも、混ざるというのは同じレベルのもので無ければ起こらない現象だ。水と油は混ざらない。どんな傾きも存在しないフラットな場に観客と自分を置き、まとめて混ぜるのがみやすんのパフォーマンスだった。それに対して、ジグザクスは特異点だ。無限遠に存在する、観客席からは絶対に手が届かない場所にいる。知覚を離脱し、個々人が頭の中で夢想し表象する、実現不可能な完全なる何かに最も近い形で顕現しているものだった。観客は手の届かぬ彼女を見上げ、その微かな射影を胸の中に落とし込む。ジグザクスを支えに自立することが可能になるので、もはや混じり合う必要など無くなる。

観客たちは他の全てを忘れてジグザクスを見る。もし今この会場が火事になったとしても、ジグザクスが歌い続けている限りは逃げられる者はいないだろう。彼らは外界と混じり合う必要が無くなった代わりに、知覚できる外界がジグザクスだけになった。ジグザクスが集めるのは憧れなどという生易しいものではなく、アイデンティティと言ってよいような人間のコアだった。ジグザクスが存在するというただ一点においてのみ、己の存在理由を見出すことができるように強要される。みやすんが自身を中心に溶解する同心円だとすれば、ジグザクスは自身を中心に構成する放射線だった。みやすん(大)はアイドルは関心を集めるのが目的だと言ったが、ジグザクスは関心それ自体だ。内容そのもの、不可避の太陽。目を背けたり、瞼を閉じるという選択肢は存在しない。見るしかない、そして焼かれる他無し。

だが、しかし。

「私はあんまり好きじゃないな。みやすんも、ジグザクスも」

「へー、なんでなんで?」

ぽろりと出た本心に、みやすん(大)が興味津々という風に食らいつく。彼女もそうやって無駄口を叩く程度には集中していないわけで、ジグザクスに何もかもを奪われてしまったかのような観客とは様子が違った。

「嫌いじゃないし面白いとは思う。特別好きになる理由はないっていうだけで、何でもない理由を説明するのは難しいけど」

「そこをなんとか」

「……不必要だからかな」

「あはははは! そりゃそうだ! 不必要て、はははは!」

みやすん(大)が大声で笑った。周りの迷惑など一切鑑みない、本当に大きな笑い声だったが、そんなことは誰も気にしていなかった。みやすん(大)の笑い声が尽き、面白いね、と言って向き直る。何か好感度が上がった気配を感じ、反射的に誤魔化す話題が口を突く。

「そういえば、この席って」

「関係者席だよ。私たちはアイドルの知人枠」

「やっぱり」

最初からおかしいとは思っていたのだ。いくら何でも人がいなさすぎるし、入場料も取られなかった。最初の妙な入口は、関係者だけに知らされた裏口だったのだろう。だとすれば、更に気になることがある。

「なんで私が呼ばれた?」

みやすんの徹夜出演が既に承諾されているというのに、今更保護者がいるとかいないでどうこうということはないだろう。実際、その有無を確認されたりなどしなかった。

「君、結構鈍いね」

みやすん(大)はまたも面白そうに言って、突然私の肩を抱き寄せた。

「君が思ってるほど、他人は君をNPCだと思ってないよ」

顔が近い。酒臭さの他に、獣臭さを感じた。血と肉の臭い。自分の身に何が起きているかを考えようとして、しかし自惚れの境界を越えることを自制したとき、私とみやすん(大)の間に突然蜘蛛が降りてきた。更に後ろから肩を掴まれ、私はみやすん(大)のテリトリー内からぐいと引き戻された。

「お姉さんたち、もうライブは終わりましたよ」

私の肩を掴んだキリはそう言い放ち、憮然とした顔でみやすん(大)を睨んでいたが、みやすん(大)は何でもないようにキリの頭を撫でた。

階下を見ると、そこにはもうみやすんもジグザクスも、もちろんナメクジもいなかった。ギラギラとした特殊ライトは落ち、館内全体を照らす通常照明が点灯していた。ざわざわと帰り支度を始める観客の間には粘液はなく、かといってあの妄信的に燃える眼差しもなく、ほどほどに独立し、ほどほどに交流する平均的な関心発生源に見えた。

「お疲れさまです」

奥の扉から関係者席へと現れたみやすんはすっかり着替えを済ませており、メイド服からいつもの学生服へと戻っていた。

「楽しめました?」

「まあね」

ライブ会場を出ると、繁華街には朝の太陽が昇り始めていて、日差しが目に沁みた。

 

三人とは適当に別れてみやすんと二人で家に帰ると、部屋の扉の前でちょうどどこかから帰ってきた妹と鉢合わせた。妹の方は機嫌が悪そうで、目にくまができていた。あの後、妹の方も何か用事があって起き出して徹夜する羽目になったのだろうか。

部屋に入ってベッドを目にすると、途端に猛烈な眠気が襲ってきた。妹とみやすんも同じだったようで、シャワーすら浴びずに三人揃って各自の寝床に倒れこんだ。

布団の中で薄れゆく意識の中、今日はもう神社は開かなくていいか、と一人頷いた。

 

(つづく)

悪意JUDGE

二十世紀が終わる年の秋、中央区地下鉄火災テロ事件の初公判が東京地方裁判所で行われた。

「朝の銀座線構内を火炎が蹂躙し……通勤通学中の多くの子供やサラリーマンが突然に未来を奪われ……救助を試みた勇敢な人間さえも次々に広がる炎やガスに……希望を散らされた三十六人の故人や数百人の負傷者たち……そして多くの遺族たちの悲しみ……万人にあったはずの希望が踏み躙られる絶望を思うと胸が張り裂ける思いで……」

両目から大粒の涙を流す銀髪の女性。彼女の悲痛な訴えと、孫を失った老婆がすすり泣く声だけが法廷に反響している。

「何の罪もない善良な市民が大勢殺され……何故このような理不尽な仕打ちを彼らが受けなければならないのか……この悪魔のような所業にわたくしは涙を禁じえず……」

女性は大袈裟な身振り手振りを交えて演説を続けるが、同調する者は一人もおらず、冷ややかな視線だけが彼女を取り囲んでいた。銀髪の女性がハンカチを取り出して涙を拭うと、傍聴席の男が突然立ち上がり、彼女に向けて罵声を浴びせた。それは聞くに堪えない侮辱の連続であったが、男を制止するものはおらず、それどころか彼に誘発された呟きがすぐに怒鳴り声の合唱へと変わった。

裁判長は女性と傍聴席双方に厳重な注意を与えたが、再び法定に静寂が戻るまでには一分近くを必要とした。弁護士が続く進行に従って立ち上がろうとしたとき、今まさに注意を受けた銀髪の女性が高々と挙手し、裁判長の注意に異を唱えてみせた。

「皆さんの動揺も当然です。大切な家族や友人を唐突なテロで失い、取り乱さずにいられる人間がどこにおりましょう」

またしても怒声の嵐が巻き起こる。今度は誰が火種でもなく、全員が同時に立ち上がり、彼女を罵り、糾弾した。異様な雰囲気の中、もはや尋常な進行は困難とみなした裁判長によって女性の強制退出が指示された。両脇を警備員に固められた彼女は大人しく出口通路へと連行され、去り際にこう呟いたのだった。

「確かに実行犯はわたくしですが……それはわたくしがこの惨事を悲しむことと何か関係があるのでしょうか?」

その一言で実に三度目の顰蹙を買う彼女こそが、ただ一人で銀座線を火の海に変えた張本人、ハーレー・スタンゲインだった。

彼女はテロに関わる容疑を全て認めており、あらゆる証拠が彼女の証言を肯定した。複数回に及ぶ精神鑑定でも異常は認められず、判決は全会一致で死刑。事件から二年後の春の終わりに絞首刑が執行され、怪人スタンゲインは散る桜と共にこの世を去った。

******

「蛆のお姉さん、朝ですよー」

みやすんの声で目覚め、最悪な朝を覚悟する。一年の計は元旦にありというが、それは一日のスパンにおいても同じことだ。最近は多少慣れてきたとはいえ、一日の始まりに見たくないものとしては、みやすんの眼球はぶっちぎりのワースト一位だった。

「君、いつまで居座る気?」

「まあまあ。お金はちゃんと入れてますし、そうピリピリしないでください」

居候のみやすんは家に金を入れるし、掃除も洗濯も毎日する。容姿も悪くない。感謝しこそすれ、恨む理由など欠片も見当たらない。だというのに、みやすんの眼球を一目見るだけで可愛い妹が一人増えたような気持ちは全く消え失せてしまい、ただどうにかしてこいつを視界から、可能ならこの世から抹消しなければならないという衝動が湧き上がってくるのだった。みやすんにとっては理不尽極まりないだろうが、こちらにとっても同じくらいだと思わせるほどに。

みやすんと目を合わせたくないので布団の中に籠っていると、横から走ってきた妹が肘打ちでみやすんのこめかみを強打した。ごつりという鈍い音が鳴り、みやすんは脳震盪で意識を失う。気の毒だが、正直ありがたい。いかに不愉快といえども、非のない相手に攻撃するほどの勇気かバイタリティか良心の欠落は自分にはなかった。妹には悪いが、自分の手は汚したくないのだ。

「お姉ちゃん、ゴキブリは嫌いだね?」

「嫌いだね」

「気が合うね!」

「出た?」

「いや……」

珍しく歯切れ悪く、あれよあれ、などと言いながら妹は両指を立ててくるくると回す。

「であるので、今日は姉妹で仲良くお出かけしようと思うんだよね」

「いいけど」

二人が転がり込んできて二週間が経つが、三人の生活は完全にバラバラだった。毎日、神社の管理と称して読書などをしている間、妹とみやすんが何をしているのかは全く知らない。朝起きたときには誰もいないこともあるし、誰かが眠っていることも、食事をしていることもある。曜日や時間ごとに決まった行動をしているかどうかさえも怪しいが、それについては自分も同じだ。本当は今日も神社の営業日だが、門だけ開けておけばいいだろう。

早速外向けの服に着替えていると、妹に注意された。曰く、神社装束を着用せよと。「神社に行くのか」と聞くと「似たような場所だ」と言うが、はっきりとは教えてくれない。神社以外の場所に装束で行くのは普通にかなり嫌だった。近所で目立ったりしないよう、普段から境内の外では装束を着ないようにしているというのに。懸命に抵抗したが、みやすんを倒したことを盾に粘られると無下にするわけにもいかず、装束の上にパーカーを羽織るという珍妙な格好で手打ちとなった。

******

十数年前、家族と共に車両事故に巻き込まれたが、妹である彼女の怪我は浅かった。姉とは違って事故現場付近の小さな病院に収容された彼女は一日足らずで目覚め、また、近隣の村の延焼が消し止められるまでには彼女が目覚めるまでと同じ時間を必要とした。

 

ただ、目に付いた。ごくごく僅かな黒い塊は、彼女の世界に定着したわけではなかった。それは「厄」だった。一般的には漠然と悪い影響をもたらすが、今目の前にあるものは放っておけば消える、かすり傷のような小さな厄だった。十数時間でそれは消滅し、自分が意識を取り戻すことを彼女は正しく確信していたし、わざわざそれに触れるリスクを背負うつもりもなかった。

しかし、思ったよりも暇だったのだ。回復までの時間は座って待つには長すぎた。意識の中で意識を失うわけにもいかず、ぼんやりと横たわっている中、視界に映るのは小さな黒い塊だけだったので、それを撫でて擦って遊ぶのも無理のないことだった。実際に遊び始めると、それは大して面白くないことがわかった。黒い塊はもちもちとしていて、指を食い込ませると形を変えるが、それだけだ。色や硬さが変わったりするわけではないし、粘土のように何かを形作るには密度と体積が足りず、すぐに飽きてしまった。

だから、ふと欠片を投げてみた。ほんの少し、消しカスくらいの断片を千切り取って、ぽいと放った。それは放物線を描いてぽとりと落ちると思ったが、実際の挙動は違った。形は変わらないのにも関わらず、羽が生えたように飛び立った。厄は彼女の世界を脱して外界へと羽ばたいていったのだ。それは空の彼方へ消えていくのではなく、恐らく適当な場所に定着して活動を再開するのだと直感したが、そういう行く末についてはあまり興味がなかった。

その遊びを始めてからしばらく経ち、彼女は厄の体積について違和感を覚え始めた。厄は少しずつ減ってきてはいるが、その減り具合と千切って投げる行為との間には相関が無いように思われたのだ。時間が経ちさえすれば何もしなくても厄は減っていくし、逆に、いくら厄の断片をバラ撒いたとしても時間経過による以上には減ることはなかった。この操作は分割ではなく複製なのではないかと彼女が気付いた頃には、厄はほとんど無くなりかけていた。

 

彼女が目を覚ましたのは土臭いベッドの上だった。右腕には包帯が巻かれていたが、それは骨折未満の軽傷であることがわかった。

「強運でしたね。蚊に刺された痕があったので、風土病の感染を懸念していたのですが、杞憂で済んだようです」

「媒介するのは病気だけじゃないと思いますけどね」

医者は一瞬困惑したが、すぐに笑顔を見せた。

「ともあれ、君が無事で良かった」

厄を撒き散らされた村の皆さんにとっては、死んだ方が良かっただろうが。

******

目的地に着き、大きく古い扉を開けると、並んだ木製の長椅子の一つに座っていた女性がこちらを向いた。それは修道服を着たシスターだった。いかにも大人っぽい落ち着いた雰囲気の女性で、老いているわけでは全く無いが、多分いくつか年上だろう。

「お久しぶりです」

シスターは艶のある声で妹の姓を呼んだ。それは当然ながら姉の姓でもあるため、ちょっとした居心地の悪さを感じる。

「やーやー、シスター。こちら、姉の」

「どうも」

妹の適当な紹介に応じて軽く頭を下げると、自分が着ている服が嫌でも目に入ってきた。荘厳な教会の中で赤白の神社装束というのは、どうしようもなく浮いているのがわかる。ただちに問題があるということはないだろうが、とても落ち着かない。

「どうぞ、こちらへ」

シスターは装束を一瞥しただけで何事もないように微笑み、奥の机へと先導した。妹とは面識があるようなので、装飾の異常性は妹のそれとして処理してくれたことを祈りたい。妹はこれが面白いと思ってわざわざ指定してきたのだろうが、私は妹ほどエキセントリックな感性をしていないのだ。次からは妹の無理の優先度を大きく下げることに決めた。

シスターは机の奥側に腰掛け、妹と二人で面談のように向かい合う形になる。シスターは改まった口調で口を開いた。

「さて、何か困っていることはありませんか? どんな小さなことでも構いません。あなたがより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません」

「……」

人間なのだから、悩みが無いとは言わない。いま装束を着ていることとか、みやすんの目が不快なこととか、最近パチスロの負けが混んでいることとか、言おうと思えばいくらでもある。しかし、今会った程度の他人にわざわざ相談したいことはあまりない。質問に対しての回答はイエスだが、実際に言うべきことは何も無い。

そしてそんなことを聞かれると、妹がわざわざ自分をここに連れてきた理由が気になってきてしまう。自分はそんなに思いつめたような表情をしていたのだろうか。何としても教会に連れて行ってシスターのカウンセリングを受けさせなければいけないと妹に感じさせるような素振りをしていたとはとても思われないのだが、精神病のサインは本人よりも身内の方が気付きやすいという話も聞く。

「特に、何か不思議なものが視えて悩まされているとかは」

「結構です」

今度は沈黙ではなく、拒絶が口を突いた。

仮に蛆についてシスターが何か知らされていたとして、その存在の有無ではなく是非を踏み込まれるというのは少々良い気分がしない。視覚で共有している人間が多少現れたとしても、まだまだプライベートな案件だ。例えば、押せば永久に蛆虫を排除できるボタンがあったとして、それを押すかどうかは簡単な決断ではない。不愉快であると言いながらも、それが自分を構成する要素の実に重大な部分であるというのは間違いなく、少なくとも他人に口出しされて決めるような事柄ではない。

「失礼、出過ぎたことを申し上げたようですね。職業柄と申しますか、初めて人に会うと、どうしても何か悩みを解決してあげたい、そのためならどんな協力も惜しまない……という気持ちになってしまうのです。たとえ懺悔室の外でも、ええ。ですから、不躾な質問をしてしまったのも全くわたくしの性格によるものでして、決して妹さんの相談でなどということもありませんので……御安心くださいませ」

シスターは言葉を選びながら軽く頭を下げて詫びた。

「いえ、別に」

「本当に聞きたかったのは……」

シスターは机に積まれた厚い書物を捲ってパラパラと指で弾いた。半分ほど繰ったとき、ページの間から茶色い何かがいくつか飛び出した。その動きはとても素早かったので、机の端から降り立って、足元で動きを止めるまでは気付かなかった……それがゴキブリだということに。

今更、あまり驚きはしない。見た目にはちゃんとしたシスターから蟲が湧くというのは意外だが、意外というのであればその程度のことだ。念のために足で踏み潰して確認しようとすると、ゴキブリはするりと避けて行ってしまった。まあ、本の間から湧いてくるという時点で現世のものでないことは間違いない。

「あまり驚かないのですね」

「そういうこともあるんでしょう」

一応そうした方がフェアかと思い、装束の裾を持ち上げて軽く振ると、机の上に蛆が二匹転がり出てきた。シスターはそれを目で追ったが、驚く様子はなかった。

「私のことをどう思いましたか?」

「人の良さそうなシスターです」

「ゴキブリのことはどう思いましたか?」

「あまり愉快な蟲ではないですが、今更でしょう」

「ゴキブリが人間に対して果たしている役割は?」

「……清掃を促すとか。ゴキブリが湧いたのを見て掃除を始めるようなことはあると思います」

「ふむふむ。ところで、うちの教会は人手不足なのですが……」

シスターの言動は風に揺れる凧のようにふらふらし始めた。一問一答としては機能しているが、コンテキストというか、全体の文脈として何が言いたいのかよくわからない。どうもゴキブリが湧いてから、シスターの落ち着きが一部失われたような気がする。『視えるやつにろくなやつはいない』とはみやすんの弁だが、このシスターもケーススタディの一事例となってしまうのか。

「ま、バイトだよね」

妹の合いの手が入り、シスターが頷く。

「……」

バイトを求めているということは、今までの質問は採用面接だったのかもしれない。質問の後に勧誘が来たことを考えると面接はパスしたのだろうが、一応既に定職には就いているし、問題が多すぎる。

「私は神主です」

「兼業で構いません。信条はあまり気にしておりませんので」

「お金には困っていません」

「まあ、あって困るものでもないでしょう。条件は良くします」

「平日は管理の仕事をしていますが」

「うーん、週一でもいいのですけれど」

シスターは先程とは打って変わって食い下がった。手に職がある異宗教の人間を熱心にバイトに誘うというのはあまり感心な態度とは思えないが、蟲が湧くということはそれ程大きなプラス査定になるのだろうか。

「失礼、本当のことを言うと、最初はあまりお誘いするつもりはなかったんですけれど、会ってみて考えが変わりました。わたくし、あなたには是非教会に来てほしいですわ」

「はあ」

どうしても働いてほしいと言われたところで、こちらもどうしても働く気はしない。お金はいくらあっても困らないというのは事実だが、対価として差し出す無駄な時間もいくらあっても困らない。その気になれば今日のサボりと同じ要領でバイトの勤務時間くらいは捻出できるだろうが、結局、そうまでして働きたくないのだ。

断りの言葉を探していると、バシン、という音が不意に頭上から鳴った。

「……?」

反射的に上を見ると、蜘蛛が一匹、尻から糸を出してツーと垂れ下がってきていた。バシンバシンと音が鳴るたびに蜘蛛は二次関数的に増えていき、すぐに十数匹の蜘蛛が群れになって降下してきた。蜘蛛の糸は全て天井にある一枚のステンドグラスに繋がっており、そこには腕を振り上げる人影がぼんやりと映っていた。人影が腕を振り下ろすたびに打撃音が鳴り、ステンドグラスに少しずつ罅が入っていく。

「これは一般業務の範疇ですか?」

「ややレギュラー寄りのイレギュラーですわ」

横で妹が溜息を吐いたとき、一際大きな音を立ててステンドグラスが砕け散り、蜘蛛に混じって何者かが叫びながら飛び降りてきた。聞こえる声は幼い女の子のもので、身体も大きくない。たのもー、とか何とか、道場破りのようなことを言っているのが聞こえた。

彼女の正体や目的はともかく、とりあえず教会の天井は非常に高いという事実がある。少なく見積もっても五メートル、建物三階以上の高さだ。死にはしないだろうが、打撲や骨折は免れない。衝突すれば下にいる自分たちも危ないし、飛び散るステンドグラスも危険だ……と考えて腰を浮かせたが、体感で起こる時間を過ぎても、実際にそれが訪れることはなかった。

「……?」

改めて上方を見ると、飛び降りから三秒以上は経過しているというのに、謎の女の子はまだ十分高いところにいた。今は天井から床までの四分の一程度を通過したあたりで、ただただゆっくりと落ちてきている。よく見れば宙を舞うガラスや粉塵の動きも遅く、断片の一つ一つがはっきりと見えた。走馬燈的なものかと思って焦ったが、机の上を這うゴキブリの動きはいつも通り早かった。

「この悪党、今日という今日は……」

女の子は空中で何やら口上を述べていた。逆光で顔はよく見えないが、ステンドグラスを破壊したのであろうバットを両手で振り上げている。彼女の落ちてくる速度とは違って、彼女の口の動きや聞こえる声は普通に見えて聞こえる普通の速さのものだ。落下だけなのだ。自由落下現象だけが、蜘蛛が糸の張力に支えられて降下するように、獲物が蜘蛛の巣に絡めとられているかのように、なんらかの抵抗力が存在する流れの中を歩んでいた。

「ま、ガキのおもりっていうのも教会らしくはあるよね」

妹がステンドグラスの破片の一つを空中から掴み取った。その先端を指に当てて軽く動かすと、鋭いガラスが皮膚を裂き、赤いラインが刻まれた。血が滲んでくるかと思いきや、じわりと肌に浮いてきたのは黒いぼうふらだった。それらは次々に羽化し、空中に溢れ出して漂う。その様子はまるで、質の悪い蝋燭から吹き出る黒煙のようだった。

蚊の群れがふんわりと上方に広がり、ステンドグラスの欠片を覆うと、それはパリンと砕け散った。その破壊は遍在かつ再三で、黒い波が触れさえすれば、無数にあるステンドグラスのいずれも、そして一度割れた断片も再び、内側から罅が溢れて砕けた。徹底的に粉砕されたステンドグラスは、太陽光を反射して昼の粉雪のように宙を舞った。侵入者の女の子は黒い蟲と白い煌きの中を降下し、今や地面から一メートルというところに来ていた。

「覚悟しなさい!」

勇ましい宣戦布告と共に、女の子は頭の上に掲げていたバットをシスターに向かって振り下ろした。蜘蛛や破片とは異なり、バットは凶器として適切なスピードを伴って迫る。シスターはふらりと立ち上がると、右手を伸ばして軽くバットに触れた。

そこからのシスターの動きは、それはもう見事なものだった。

女の子の手からバットを片手で器用に抜き取り、空中でくるりと半回転させる。上から下へ振り下ろす軌道が下から上へと打ち上げる軌道へと変わり、殴りかかる勢いだけを保存して、バットの先端が女の子の顎を捉えた。そのアッパーカットの強烈さといったら、女の子の小さな身体を重力に逆らって軽く宙に浮かせるほどだった。

シスターの反撃はまだ終わらない。バットを肩に担ぐと、腰を捻って片足を軽く持ち上げる。バットの先端を振り子のように揺らしてタイミングを取り、床を踏みしめ、宙に浮いた女の子目がけて……

フルスイング!

気持ち良さそうにバットを振りぬいたシスターの姿とは対照的に、横殴りされた哀れな女の子の頭からは何かが潰れたような、砕けたような嫌な音が響いた。木製のバットは真っ二つに折れて宙を舞い、床に落ちてカランと渇いた音を立てた。同時に、女の子はベチャリという音を立てて地面にうつ伏せに落下した。

「今、彼女に必要なのは頭を冷やすことです。彼女がより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません……」

シスターは折れたバットの先で十字を切った。

******

『……それは偶然でした。わたくしはいつも通り職場へと車でゆく予定だったのですが、その日に限っては家の前の道路が工事で封鎖されていました。もう夏が始まって日差しが強くなってきていて、歩いていくにはだいぶ暑かったので、末広町から神田までの一駅の距離ではありますが、わたくしは電車に乗ることに決めました。駅に着いたとき、わたくしは大いに驚きました。人の多さについてもそうでしたが、最もわたくしを驚かせたのは彼らの表情でした。人々は構内に密集していて、何十何百という顔を同時に見ているというのに、何か感情らしいものを持っている顔はただの一つもありませんでした。彼らの顔からは、遺伝によって定まった人間のベースとしての相貌、それ以上の情報は何ら読み取れませんでした。無、無なのです。わたくしは大いに困惑し、そういったことにならざるをえないような事件が、それが何かと問われると想像も付かないのですが、とにかく何かがわたくしの来る前に起こっていたのかもしれないと思いました。そう思ったので、わたくしは翌日も翌々日も同じ時間にその駅を利用してみましたが、彼らの表情は何も変わりませんでした。観察を始めてから四日目の朝、彼らに続いて満員電車に乗り込んだとき、唐突にわたくしの心は決まりました。彼らを救わなければならない、そう決意したのです。食に飢えた子供におにぎりを与えるように、表情を失った彼らには劇的な物語を与えなければなりません。淡々と歩いている彼らが、表情豊かに何かを考え、互いに議論し、自ら行動する姿を思い描くと、わたくしにはそれはとても素晴らしいことに思えました。わたくしは彼らに素敵な人生を提供することに決めたのです。……しかし、そのためには、彼らに与えられる物語は強烈で、とても強烈で、彼らの人生の大きな位置を占めるものでなくてはなりません。何をもってしても疑うことができない、彼らが行動しなければもうどうにもならないという差し迫る現実を与えなければ、きっと彼らはまたホワイトノイズの中に戻っていってしまうでしょう。更に言えば、個人個人が思いを巡らせずにはいられないだけではなく、社会全体がそれに向かって邁進するようなものが理想的でありましょう。結局のところ、劇的かつ、可能な限り多くの人を巻き込み、社会を揺るがすという、そういった出来事を実現すれば彼らは幸せになれるのです。……かような理由で、わたくしは銀座線の構内に火炎を撒くことを決意致しました。なるべく多くの方々に体験して頂くことが目標の一つとなるわけではありますが、その人自身に業火が迫るのが一番良いとも限らず、例えばその人の職場や家族であるとか、精神的に近い距離に危機を感じてもらうことができれば、同じような衝撃が見込めると考えます。翻って、人を殺すことはあまり本意ではありません。人は死んでしまえばそれ以上いかなる体験もできなくなるわけですから、それは本末転倒というものです。しかし、死者本人ではなく周辺の人々については、彼の死は最もドラマチックな経験の一つとなることは間違いなく、これは大きなジレンマではありますが……』

そこまで読み進んだところで、視界の端に赤い何かが映ったので、一端本を下げた。

歩きながら本を読むときのコツとして、視線を下げるのではなく本の方を持ち上げて歩くということがある。周りに気を配ることと文章に目を通すことを両立させ、不要な事故を回避できるのだ。工夫をしたところで行儀が悪いとわかってはいるが、今歩いているのは人気のない住宅地だし、このくらいは許されるだろう。

目の前で赤く見えたのは神社の鳥居の根元だった。塗装はところどころ剥げており、風情があるとみるか、廃れているとみるかは際どいところだ。しかし、神社の中までよく見れば、大木の下に落ち葉が積もっているようなこともなく、それなりに手入れがされていることが伺える。鳥居にしても、強く主張してこないが故に閑静な住宅地に馴染んでいるような面もあり、常に煌びやかにしていればいいというものでもないのかもしれない。

そんな鳥居を横目に通り過ぎようとした間際、神社の屋根の一部を白いたくさんの何かが覆っているのが見えた。小石にしては場所がおかしいし、鳥にしては小さすぎる。まるで現実世界がドット落ちしたような不自然さだった。少し揺れているようにも見えるが、その揺らぎの方向はまちまちで、風に吹かれているわけではない。

気にはなるが、わざわざ見に行くほどではない。埃か布か何かだろうと決め付けて歩みを再開し、再び読みかけの本を開いた。

『ハーレー・スタンゲイン 秘蔵獄中日誌』、それがこの本のタイトルだった。怪しい題名の通り、表裏のどこにもバーコードが付いていない。つまり商業ルートには乗っておらず、誰かが勝手に製本して流通させた地下本だ。表紙には黒い背景にゴシック体が踊っており、いかにも個人製作という趣きを感じさせる。出版社の表記や奥付は存在しないが、作者についてだけは『著:ハーレー・スタンゲイン』と大きく明記されていた。こんな本が世の中に出回り、ネットオークションではそれなりの値が付くほどの品になっているのは、「作者」が人気者だからに他ならない。単独で火災テロを起こし数十人を殺害した、しかし物腰の柔らかい穏やかな銀髪の美人という稀有なキャラクター性を持ったハーレー・スタンゲインは、死後もサブカルチャーを中心にカルト的な人気を得ている犯罪者だった。

この本はそんな故人が刑務所に遺した極秘手稿という触れ込みであったが、信憑性については眉唾ものだった。手記の存在や内容に関して、処刑された彼女自身や刑務所からの公式ないし非公式なアナウンスは特に無く、この本がそうであると自称しているに過ぎない。誰かの憶測か創作の産物と考えるのがまともな評価だが、こういうカルティックでアングラなものに限っては胡散臭ければ胡散臭いほど却って本物臭く映る節があり、結果として、それなりの信頼を得ているかのような扱いで取引されているというわけだ。不思議な話だが、『却って』などという単語が存在するあたり、大抵の対立概念はあるスレッショルドを超えると反転する性質を持っているのかもしれない。

適度に周囲に気を配りながら読み進めているうちに、目的地に到着した。先程の神社と同じくらい廃れた、見るところのないアパート。目指す部屋番号まではわからなかったのだが、ナメクジが這っている扉をすぐに見つけた。階段を昇り、部屋の呼び鈴を鳴らす。

「みやすーん、開けてくれーっす」

バタバタという足音のあと、目的の人物が顔を出した。

「ああ、ぴよちゃん。よくここがわかりましたね」

「この本、返しに来たんすけど。まだ読み終わってないんで、しばらく上がって読んでてもいっすか?」

「どうぞどうぞー。私の家ではないですけどね」

三角巾を被ったみやすんは、はたきで部屋の奥を指し示した。

「お邪魔ーっす」

適当にその辺の椅子に座り、読書を再開した。椅子の座面にはナメクジが這っていたが、どうせ感触はないのであまり気にならない。

『……ただ、わたくしの最大の懸念は、時間の経過と共に彼らに与えた物語が風化してしまうことでした。仮にわたくしの試みが成功をおさめ、いかに大きなインパクトを与えたとしても、彼らが考え選択した結果が、むしろ劇的な物語を封印する要塞化に向かうのは目に見えていることです。もっとも、それ自体は悲観すべきことではありません。堅牢な要塞に覆われた平穏な日常があるからこそ、破壊的な行為が劇的な物語として機能するのです。強化された要塞を打ち崩すような、更新された衝撃を無限に与え続けることさえ出来れば何ら問題はないのですが、しかし、これはわたくしには出来ません。何故なら、物語のための犠牲として三十六人を殺害したわたくしは死刑が確定しており、間もなくこの世を去るからです。誰かにわたくしの遺志を伝えられればよいのですが、今わたくしが話しかけることが出来るのは、刑務所の隅や排水溝を這い回るナメクジにゴキブリ、蜘蛛のような蟲たちだけです。しかし、これもまた悪くないことなのかもしれません。蟲はどこにでもいます。処刑されるわたくしとは異なり、わたくしとお話をした蟲はどこにでも行けるのです。いつかどこかで蟲の声を聞いた誰かが、わたくしの遺志を継いで下さることを祈っております……』

******

妹に倣って十字架に埋め込まれたダイヤで指を薄く切ると、そこから蛆が溢れてきた。蛆はぼたぼたと女の子の顔の上に落ち、うっ血した顎と頬を這い回った。

いま目の前にいるのは、殴り込みをかけて返り討ちにされた謎の女の子だった。教会の奥の部屋にあるベッドの上で仰向けに寝かされている。シスターの撲殺ギリギリの滅多打ちからすると骨のいくつかは砕けていてもおかしくないのだが、不思議なことに、怪我の状態はそこまで酷くなかった。打たれた部分が多少赤黒くなっているだけで、転んで擦ったと言っても通らないことはないかもしれない。

あと気になることと言えば、彼女の顔に薄くかかっている白い網だった。放射状に広がり、間に橋がかかっている、いわゆる蜘蛛の巣。手を伸ばすと案の定それには感触がなく、指に絡んでいるのかいないのかよくわからない感じになった。蛆が何匹か捕まっていたが、物量で圧倒しており、大勢に影響はない。

そのまま三分ほど待っていると、顔を覆っていた蛆が引き、女の子が目を覚ました。顔からは赤みが完全に無くなり、健康そうな白い肌に戻っている。女の子はしばらく顔をぺたぺたと触ったあと、ようやく横に人が座っていることに気が付いたようで、咳払いをしてベッドから上半身を起こした。

「一緒にしないでください」

まず彼女が吐いた言葉は省略が利きすぎていて、人に何かを伝えようとするにはあまりにも無謀なものだった。

「あのですね、この世には二種類の人間がいるのです。それはバットで人の頭をフルスイング出来る人間と出来ない人間です」

「うん」

その基準はどうかと思うが、分類が排他的で無例外である以上、間違いとは言えない。状況や気分によるとか、多少力加減はしてしまうとか、そういう曖昧な値のどこに境界線を引くかさえ決めることができれば、世の中の人間を二つに分けることは確かに可能だろう。むしろどこに線を引くかが問題になるような気もするが、平均を算出して半々に分ければ妥当だろうか。

「言うまでもなく、キリは後者です。キリは悪意への危機感が欠落した人たち、悪意を悪意とも思わない異常者ではないのです。そういう人たちとキリを一緒にしないでください」

キリというのはどこかの地域で使われている一人称だろうか。多分そうだろう。

「先にバットで殴りかかったのは君のように見えたけど」

「攻撃は敵と場合により、死刑制度と同じです。あの悪魔のシスターを襲うのは世のため人のため。悪意ではなく善意ですので、セーフです。モスキートのやつもシスターと同じようなものです。羽化した蚊の湧き上がる悪意を見たでしょう。あれが蚊の本質でありますよ。古来より疫病を撒き散らし、人間の集団を殲滅してきた悪意の塊。無差別にバラ撒く災厄を悪と呼ばずして何が悪か! あの女はちょっとした自傷を元手に、それを媒介する蚊を撒き散らし、触れたもの全てに災厄を感染させて破滅に導く、そういう最悪な人間なんです」

「はあ」

「しかし、キリはあなたを巻き込むべきではありませんでした」

一転して、女の子はしょんぼりと顔を伏せた。

「キリは取り返しの付かない過ちを犯すところでした。あなたも一緒に殺すつもりでしたが、よく相手のことを知らなければ、無差別に人を殺す悪者と同じになってしまいます。あなたは退治されるべきではありません。きっとキリと同じで、普通の善意を持った平常な人間のはずですから。蛆虫は益虫ですし、蜘蛛も同じです」

気付けば、先程と同じように天井から数匹の蜘蛛が糸を伴って降りてきていた。ベッドの足元にも既に何匹かが這い回り、巣の網を張り始めたりしている。

「蛆虫が腐敗組織を食い除くのと同じで、蜘蛛も害虫共を退治し、長きに渡って人々と仲良く暮らしてきた、益虫中の益虫なのです! 善意に足が八本生えて歩き出した存在なのです」

情熱的に手を握られ、返答に困る。はっきり言って、それこそ君と一緒にするなよという感じがする。確かに私は人の頭をバットで殴れないが、それは相手によらない。別に相手が母親だろうが、死刑囚だろうが、普通人は人の頭をバットで殴れない。要は、常に殴れない人間、条件付きで殴れる人間、無条件で殴れる人間の三種類がこの世に存在したとして、これらを二つに分けるならば、私の感覚では前一つと後二つで分けるべきであって、前二つと後一つという分類を選択する彼女には疑問を感じるというか、相容れない。

躊躇なく人の頭部を強打するシスターや、あしきものを撒き散らす蚊の群れである妹を悪意のキャリアとみなすかどうかも、結局はどこにウェイトを置くかという個人の感覚の問題しかない気がする。自分の感覚では、はっきり殺害しようという意志をもってシスターを先制で襲った目の前の女の子の方が、悪意かどうかはともかく、アブノーマルな人間のように思われた。とりあえずいい人っぽい雰囲気があったシスターに比べて、バットと自己弁護を振り回している記憶しかない彼女には総じてあまりいい印象が無い。

「だから、今回は失敗しましたが、キリは無差別に悪意を撒き散らす人間ではないのです。キリは悪意を悪意と認識しているし、それを闇雲に人に向けてはいけないということを理解している、善良な一般市民なのです……」

こちらがあまり乗ってこないことを察してしまったのか、勢いづいた声は突然トーンを落とし、彼女は今にも泣きだしそうな声色でぶつぶつと呟き始めた。その言葉は無根拠な自己愛に終始していて、同情の余地があるとは思えなかったが、その落ち込み様だけは少し不憫だった。

「とりあえず、間違ったことをしたと思ったら謝った方がいいよ」

フォローを入れられる要素が何一つ無いので戒めのようなことを言ってみたつもりだったのだが、その言葉は彼女をとてつもなく感動させたらしい。

「あなた、まともです。凄く、凄くまともです」

ひとしきり目を輝かせたあと、ごめんなさいと大きく頭を下げた。その自己満足した態度が殺そうとした相手に対する謝罪として妥当かというと微妙なところだが、促してしまった以上、謝られたら許さないわけにはいかない。

贖罪の儀式を済ませた彼女は色々なことを話し始めた。好きな音楽、食べ物、テレビ。興味がなかったのでほとんど聞いていなかったのだが、饒舌に喋る彼女はとても楽しそうだった。今日の夕食は何にしようかなどと考えながらうんうん頷いていると、妹が扉を開けて顔を出した。

「治ったんならとっとと帰りなよ。シスターに見つかったら面倒なことになるからね」

「シスターも怒ってるんだ」

「逆、逆。お姉ちゃんは知らないかもね。『あなたがより良い人生を送るためでしたら、わたくしはどんな協力も惜しみません』……あのシスターは絶対に自分のために怒ったりしないんだよね、そういう博愛精神をバグらせたやつが一番厄介なんだけどね。ほらほら、帰った帰った」

妹がシッシッと猫を追い払うように手を振ると、意外にも女の子は素直に立ち上がって部屋を出て行った。扉が閉じたことを確認し、妹は深く溜息を吐く。

「やっぱり懐かれたね。前から思ってたけどさあ、お姉ちゃんって変なやつに好かれる才能があるよね。シスターがあんなにぐいぐいいくところも初めて見たしね」

「あんまりありがたくないけど、バットで殴られるよりはマシかも」

「嫌いの反対は無関心だけどね。好きで殴ってくるやつに好かれないといいね」

 

邪魔が入ったのをいいことに、バイトについては後ろ向きに検討する旨をシスターに伝え、妹と共に家に帰った。

鍵を開けようとすると、先に扉を開けて見知らぬ少女が出てきた。ポニーテールにリュックサックといういでたちで、服装も短パンにノースリーブと涼しげだ。露出の多い服装は色気よりも引き締まった身体の健康さを際立たせていて、バスケ部所属というような体育会系のオーラを感じる。

目が合うと、お邪魔したっすー、としっかり挨拶をして軽く手を振り、走って帰って行った。癖らしい癖がなく健全そうな、それこそまともな人間に久しぶりに会ったような気がする。

「また来てくださいねー」

が、部屋の中から聞こえる声で考え直す。今まで家にいたということは、あのみやすんとわざわざコミュニケートしていたということなので、かなり極まった変人の可能性が高い。それを裏付けるように、床にはナメクジに紛れて見たことのない蟲が落ちていた。細長い胴体はあるが、触覚も足も見えず、ただの棒のようでもあった。腰を下ろしてよく見ようとすると、それは端からスーッと消えてしまった。元々消えかけだったのかもしれない。

「今の子、みやすんのともだち?」

「はい、お友達です」

「ただの知り合いじゃなくて?」

「お友達です」

「へえ。ところで、みやすんって人の頭をバットで全力で殴れる方? それとも殴れない方?」

「うーん。殴るといっても、私が振ったバットは飴みたいに曲がって彼女の頭に絡み付くでしょうからね。それ自体は割とよくあることですし、そういう意味であれば、殴れる方かもしれません」

みやすんが何を言っているのかさっぱりわからない。単純な質問に何か深淵な意味を汲み取ってしまったのか、それとも適当に喋っているのか。隣で妹が肩をすくめた。

 

(つづく)

妄想BUG

パン。蛆。トマト、レタス、蛆。ヨーグルト。蛆。蛆、牛乳。

いまや蛆は部屋の至るところで蠢いていたが、とりわけ多いのは食事が盛られた皿の中だった。箸で摘まんだレタス、その表面は風になびく白い雑巾の如し。

蛆虫はいつどこから湧いてくるのか?人類史上、その問に答えが出たのは十七世紀のことだ。当時支配的だった自然発生説はフランチェスコにより否定されたはずだが、彼女にとっては関係がない。時間も場所もなく、彼女を取り巻いていつどこにでも現れる。

そして、世の中には慣れることと慣れないことがある。どちらかといえば蛆を食うことには慣れる人間の方が少数派であろうし、彼女もまた不幸にも後者の人間だった。だからといって取り除けるわけではないので、慣れない行為を続けて生きるしかない。何度か排除を試みたことはあるが、内部から無尽蔵に湧いてくるので取り除けないのだ。

もっとも、人生にはそういうところがある。この困難は最悪ではあるが、厳密に言えば、生きていれば概ね何かしらの最悪は付きまとう。経験としての最悪の定義とは相対的に最も悪いものであって、何かしらの価値基準が存在する限り、常に従属してしまうからだ。やや殊勝な心掛けかもしれないが、これが私の抱える最悪ならば、甘受するのは吝かではない。

葉っぱの上で踊り続ける白い妖精たちとしばらく睨み合ったあと、観念してそのまま口に運んだ。いつも通り味は無く、食感も無い。だから口に入れてしまえば楽なものだが、そう割り切れれば苦労はしていない。なるべく噛まずにレタスを飲み込み、トマトの表面にも湧いている蛆を指で突いてみた。触っても感触すらなく、かといって指をすり抜けるわけでもなく、ただ白々しく、一応接触には応じるような素振りで、その場からは押しのけられる。干渉はできるが、一切の干渉が返されない。作用のみが生き、反作用は死んでいる。

目を瞑って野菜とパンを全て食べきり、ヨーグルトと牛乳を一気に煽った。乳酸品系の食品は色が似ているのであまり気にせずに食べられる。もちろん中をよく見れば、無数に泳いでいるのだが。

歯磨き、洗顔、着替え……蛆に囲まれたまま朝の雑事をこなし、クローゼットを開けた。数年間着続けているというのに、満遍無く蛆が湧いていることを除けば、どの服も破れも汚れも無く綺麗なものだ。薄い青のパーカーを手に取り、数回ばさばさと振って白い欠片を揺すり落としてから、上に羽織って家を出た。

 ******

神社に着いた。開門時刻、つまり職としての始業時刻を三十分ほど過ぎていたが、それで困る人もそれを叱る人もいない。参拝客自体が稀である上に、大抵の人は手を合わせて小銭を投げれば満足して帰っていく。管理者としての仕事は、営業しているというポーズのために門の開け閉め、たまに掃除、あとはただ敷地内に滞在すること。

裏手の門から入り、本堂の鍵を開けて中に入った。静粛な空気の中でもちらほら蠢いている蛆が見えるが、家の中よりは遥かに少ない。適当な仏像に脱いだパーカーをかけ、隅に寄せ集められている仏壇のうち、ひときわ大きなものを開ける。中身の仏具は既に廃棄されており、代わりにサイズの揃った文庫本が上から下まで詰まっている。昨日から読みかけていた本を手に取って開いた。本を読むときは、この上なく蛆虫が邪魔だ。小虫とはいえ活字に比べれば十分に大きい。

文庫本にしては厚い一冊を読み終わる頃には、高窓から差し込む太陽光で堂内が熱を帯びてきていた。換気がてら、装束を羽織って外に出た。

最も表門に近い堂にふらふらと向かう。この小堂が管理者と参拝客にとって神社の中核である儀式装置、賽銭箱が設置されている最重要施設だ。それを上から覗くと、白い蛆の間に煌めく小銭が混ざっている。誰かが金を投げ込む姿など滅多に見ないのに、それでも小遣いにしては多い程度の額が残されるのだから不思議なものだ。ここが何という宗派だったのかさえもよく覚えてないないのだが、宗教の力は度し難いということだけはわかる。

「あのう」

蛆と賽銭をぼんやり見つめていると、後ろから声をかけられた。見知らぬ他人と会話をするのはいつでもあまり良い気分がしないが、似非神職としての負い目がある境内であればなおさらだ。

「いつもお世話になってるわ」

「いえ」

しわがれた声に向かって振り返ると、杖を突いた老婦人がいた。全体的に小綺麗で、人生をリタイアした者らしい、余裕のある暇そうな雰囲気を放っている。過去にお世話をしたどころか遭遇した記憶もないが、散歩ついでにここによく立ち寄る近隣住人というのが一番有り得る線だろうか。もともと、遠くからわざわざファンが足を運んで来るような神社ではない。

「最近体調が優れなくてね」

「どちらが悪いのですか」

「目がね、もうよく見えないのよ」

「はあ」

白内障で、両眼とも。代わりに賽銭を入れてくれるかしら」

「構いませんが」

老婦人から五円玉を受け取った。

ここまで歩いて来ておいて本当に賽銭を入れる視力がないということは無かろうし、それが口実に過ぎないというのは、二人で共有している暗黙の言い分というやつだ。本当は、珍しく管理者がいたから話しかけてみただけ。その人懐っこさは全く歓迎すべきではないが、五円とはいえ収入源だ。パトロンということであれば、酌量の余地が大いにある。悪い印象はないし、人肌脱いでやるか。

装束のポケットを覗き込み、中から慎重に蛆を摘まみ出す。触っても指に感触が起こらないので視覚だけが頼りだ。一匹は地面に落としてしまったが、二匹目で成功した。

受け取った五円玉を右手で賽銭箱へ、無事拾い上げた蛆虫を左手で老婦人の顔面へ、それぞれ親指で弾いて飛ばす。チャリンとつまらない音を立てて箱に飲まれていった五円玉はどうでもよく、本命は蛆虫だ。放たれた蛆は老婦人の鼻のあたりに着地すると、するりと這って目玉へと移動した。そのまま眼球を貫通して内側へと入り込み、猛烈な勢いで増殖を開始する。瞬く間に蛆が占める体積が眼窩の容積を超え、涙のように溢れ出した。目から鱗ならぬ、目から蛆。

「ありがとうね。あなたに投げてもらったせいか、なんだかいい音がしたわ」

「……済んだ音を聞くと心が綺麗になる気がするでしょう」

あまり口を開きたくはないが、ペースを握られるよりはまだいくらかましだ。両目と地面を結ぶ白い滝を作る老婦人から目を背けつつ、いかにも業界人のような顔で話を続ける。

「それは厄が祓われているからなんですよ。清らかな音が魔を追い出し、福を引き戻してくれるんです」

出まかせを喋るのが心苦しくないと言えば嘘になるが、これは類推で許される範疇だろう。

要するに、悪いものを漠然と排除するのだ。この世のあらゆるものを「よきもの」と「あしきもの」に分類したとして、後者だけを正確に除去することができれば、結果的に幸いがもたらされるだろう。それを実行する主体が清音か蛆虫かという違いがあるだけで、構造としては同じようなものだ。

「まあ、気持ちの問題ということもありますが、その気持ちを変えるというのが、普段の暮らしの中ではなかなか難しいことですから」

「本当。なんだか、目の調子も良くなってきたわ」

話をしている間、老婦人は頷きながら両目から蛆を垂れ流していたが、じきに最後の一塊がぼとりと落ち、白目と黒目が顔を出した。

ありがたいことに、老婦人は二、三だけ礼を言って帰っていった。今日はもう誰にも会いたくなかったので、コンビニに昼食を買いにいくのは諦めて、本堂に帰ってしばらく眠った。

 ******

十数年前、家族でアメリカのなんとかいう州に出かけた折、レンタカーにタンクローリーが衝突。二台とも炎上、オイルが近くの建物に燃え移り、近隣の村一つを焼く惨事へ。右半身に重篤な火傷を負った彼女は州最大の病院に収容され、数日間意識を失っていた。

 

小学生の彼女は囲まれていた。何か黒い塊に。悪意は感じない。しかし、著しく悪い。その塊が自分を殺そうとしているわけではない。ただ、塊の存在は結果として自分を殺す。勝手に進行して死に至らしめる、そういう性質の現象がそれなのだ。それ自体は全く珍しいことではない。むしろ、どこにでもある。草原にも、海底にも、宇宙にもある。帯のように広がっていることもあるし、ポツリポツリと点在していることもある。

それ自体が管轄しているのはただ出現と進行であって、目的、つまり悪意を持つのは、誰かの手に道具として渡ってからだ。そのものは目的を持たない現象に過ぎず、存在に気付いたからといって付きあう必要もない。例えば、逃げてしまえばいい。ただ普通に、その近傍から離れることさえ出来れば、最悪な終わりを体験することは無いはずだ。

しかし、今回に限ってそれは絶対に出来ないことに気付く。なぜなら、彼女がその現象を収容している器だからだ。どこにでもある「あしきもの」は、今回は彼女の中に巣くった。こうなってくると、俄然厄介。なぜなら、それは出現と進行のみを行い、退行とか、排除とか、そういう機能を持っていないからだ。いや、持っているのかもしれないが、少なくとも彼女はその機能へと外部からアクセスする方法を知らない。だからどうしようもなく、進行を見つめるしかなかった。時間が経つにつれて、黒い塊は彼女の内側を満たし始め、世界には漆黒の帳がかかった。

全てを諦めてからしばらくして、同じ私の中だが別のどこか、広がる闇の世界の末端で何かが蠢き始めた。その存在はどちらかというと不快で、最初はあしきものの一種だと思っていたが、微妙に性質が違うことに気付いた。優しく昏倒させるように包み込むあしきものとは異なり、蠢くものは活動的で、バイタリティーともいうべきものを備えている。あしきものはコーヒーの中にミルクが溶け込むように波及するが、蠢くものは竹の地下茎が地面に根を張るように力強く、確実に拡大した。

じきに、蠢くものがあしきものから世界の領域のいくらかを奪い取って占有した。どうも蠢くものはあしきものをただ押しのけるだけではなく、削り、除き、食っているようだった。また、蠢くものの拡散は、あしきもののように一つの個体の占める面積が増していくようなやり方ではなく、同一の個体が複製されることによって群れの総体としての面積を確保するそれであった。結局、餌を食して増殖を行うという、原始的で一般的なライフサイクルが成立しているというわけだ。一度火がついた繁衍はもう止まらない。蠢くものが雪崩のように殖え、捕食対象であるあしきものを完全に駆逐するまでにそう時間はかからなかった。

 

彼女が目を覚ましたのは薬品臭いベッドの上だった。右腕には何か穴の開いたカバーのようなものがかかっており、その中からは意識の中で感じたものと同じ蠢きを感じた。

「それはマゴットセラピーと言って、蛆が悪い部分を食べてくれるんです」

「知ってます。餌なんですよね。彼らにとっては」

一瞬医者はたじろいだが、すぐに笑顔を見せた。

「気味が悪いかもしれませんが、仲良くしてあげてくださいね」

それはもう。

 ******

「お姉ちゃん、掃除しといたよ」

日が落ちて、家に帰ると妹がいた。どこに住んでいるのかもよくわからないが、年に何度かは現れる虫のようなやつだ。いつも突然に現れ、一日か二日泊まって帰っていくので、宿が確保できなかったときの緊急避難先にされているのだと思う。

そして彼女の言葉に反し、部屋の中には蛆が大氾濫していた。あちこちにいるという段階を遥か前に通り越し、部屋に堆積して山河を形作っているという有様だ。これも年に何度かはあることで、蛆が増えるということは糧にするあしきものが豊富にあるということだ。今回は妹が何かを持ち込んできた可能性が高いが、どうせ蛆が食ってくれるので警戒する必要はない。

だから妹は放っておいて、脱衣所へと移動した。食事の次に気が重いのが入浴だ。蛆を食う趣味は無いが、蛆で身体を洗う趣味もない。

ふと脱衣所の洗面器を覗き、異変に気付いた。いつもと違い、容器を埋め尽くしているのは白い蛆ではなかった。見たことのない、黒くて鋭角なフォルムを持つ何かが水の中を活発に泳ぎ回っている。白くて丸っこくて同じ場所でもぞもぞ蠢いている蛆とは正反対だ。一見すると稚魚のようだったが、こいつも蛆と同じで虫の幼体であることを知識としては知っている。ええと、名前をなんというんだったか。

「ぼうふら。だね」

いつの間にか妹が後ろに立っていた。

「普段はこんなの見ないんだけど」

「違う。それ、私の。お姉ちゃんの蛆と同じやつね」

「……」

水を捨てようとしていた手が止まった。警告音がぼんやりと頭の中に鳴り響く。

蛆の幻覚については誰にも話したことがなく、妹も例外ではなかった。蟲が湧く人間も、自分から蟲が湧いていることを認識している人間も初めて見たことになるが、どちらかといえば、より大きな問題は後者だろう。

「ぼうふらって、どういう虫だっけ?」

「ぼうふらに聞いてね。冷蔵庫のハム食べていい?」

妹は欠伸をして、こちらが返事をする前に立ち去ってしまった。試しに手元の容器に手を突っ込んで掻き回すが、ぼうふらの感触はない。なのに、当たった手を避けて泳ぐ。

どうも妙なことになってきた。

妹が自分の身体からぼうふらが湧くと主張しただけならばまだ良かった。妹と自分の頭がおかしくなったというだけで済むからだ。精神障害傾向は環境のみならず遺伝に支配されることも多く、むしろそういうものの一種として理解することがより強く支持されただろう。

そもそも、今までは自分の頭が部分的に何らかの病気に罹患したものとして蛆の存在を理解していた。幼少期のトラウマ的経験によって認識系の一部に支障をきたし、日常的な幻覚を見ることになったものだと。蛆の幻覚が何か現実に影響を及ぼしていたような経験があるとしても、そんなものはただの思い込みか、記憶さえもまともに保持できず都合よく改竄しているということにすれば事足りる。それは蛆の神に取り憑かれたとか考えるよりもよほど有り得るし、何より平穏な世界を破壊しない理解だ。

しかし、妹も蛆を視ているという言質が取れてしまったのだから、状況は全く変わってくる。脳髄を覆っていたはずの蛆と妄想が引き剥がされ、有無を言わせない現実が出土しようとしている。今この瞬間から、私と妹の接触は現実世界のある部分を破壊し再創造する、ただでは済まないものだということだけが間違いなく事実だ。

 

リビングに戻ると、妹の他に見知らぬ女性が一人。

四人掛けのテーブルで妹の隣に座り、何をするでもなく足をぶらぶらさせているセーラー服の女がいた。妹はどちらかというと小柄な方だが、奥に並ぶ女は更に小さい。高校生風の外装に反し、中学生でも幼いくらいだ。ハムサンドを食べている妹がその女に気を払う気配は無い。

思わず溜息を吐きそうになる。今新たに浮上した問題は、彼女は蛆やぼうふらと同類の幻覚かということだ。いや、個人の体験に過ぎないはずの幻覚を共有することは有り得ないので、後を引くテールランプのような、光学的な実体か、視覚認識にのみ残る残像か何か。とにかく、私は未知のものと接触する度に、それがファントムかどうか確認する義務を負ったのかもしれない……が、それについては最初に蛆を視始めたときからあまり変わっていないか。

「セーラー服のきみ」

呼びかけに応じ、未知の女がこちらを向いた。

視線が合って第一印象、まず強烈な不愉快があった。容姿は整っていて、髪や靴(土足であることに今気付いた)には隅々まで手入れが行き届いている。ただ、ぱっちりとした大きな目からこちらへ向けられる視線だけが、有り得ないほど外見に噛み合っていない。絡み付くようなというか、排除し難いというか、限りなく粘着質なのだ。粘るといっても必ずしも陰気ではなく、むしろ逆で、ぐいぐいと他人の中に侵入して粘液を身体の中に残していくような、積極性と後ろ暗さが共存している有様がその女の目だった。

「はじめまして。気軽にみやすんって呼んでください」

女が目を細めることでこちらから見える眼球の面積が減り、嫌な感じが多少薄れる。目さえ見なければ見た目通りの清潔で快活な印象かもしれないが、目を見ないわけにはいかないので、見た目通りではない不潔で陰鬱な印象だ。

「きみ、妹のともだち?」

「はい、お友達です」

「ただの知り合いだね」

意見が割れた。

「あなたは嵐の天気予報にワクワクする方ですか? しない方ですか?」

自己紹介は終わったのか、それとも自己紹介の続きなのか、みやすんはそんなことを話し始めた。

「大震災が来たときはどう思いましたか? 近所で火事が起こったとしたら? 明日新宿にジャック・ザ・リッパーが現れたらどこかに逃げますか? 手元に核弾頭ボタンがあったら押しますか?」

「なんとも思わない。帰って何か食べて寝る」

「あれ? 意外です。ワクワクする人、ボランティアに行く人、野次馬に行く人、西新宿駅に通う人、十六連射する方の人だと思ったんですけど」

「私はそんなに無節操に見えるかな」

「いえ、どちらかというと落ち着いた方に見えますが。視える人にろくな人間はいませんからねえ」

みやすんもそうだということにはあまり違和感がなかった。視える側というのも、ろくな人間ではないというのも。並の女子なら一匹でも悲鳴を上げるような蟲が無数に散乱する惨状の中、平然と座っていられる時点でどうかしている。水の代わりに蛆でできた海を泳ぎ回る魚の代わりにぼうふら、そして陸をゆっくりと這い回るナメクジ。

ナメクジ?

「これ、みやすんの?」

「はい!」

「こいつ、気持ち悪いんだよね。私のはスイスイ泳いでかっこいいし、お姉ちゃんのもコロコロしてて可愛いけど、ナメクジって。ちょっとフォローのしようがないよね、流石に……」

クスクスと笑う妹の手元にナメクジが近付いた。

「近付かないでね」

妹はそう吐き捨て、ナメクジの近くにコップの水を垂らした。当然のように水からはぼうふらが湧き、宙へと飛んだ。その飛翔が羽化によるものだということを理解するのに少し時間がかかった。しばらくテーブルの上を舞った蚊が不意にナメクジの上に止まり、その瞬間、ナメクジが爆散した。日常ではなかなか見られず、喩えようのない、全身がバラバラになるモーションで派手に体液を撒き散らし、水の中へと溶けていく。

「ったく、死に際も気持ち悪いなあ」

「酷いですよー」

「君はせめて気持ち良く死んでね」

妹が座ったまま器用にみやすんを蹴り飛ばし、みやすんは蛆の溜まりと化した床へと倒れ込んだ。がしゃんと大きな音が立つが、どちらもイマイチ動じていないところを見ると、この二人の間ではよくあることか、少なくとも驚くべきことではないようだった。

「一応私の家なので、あまり暴れないように」

「あ、ごめんねお姉ちゃん」

ワンルームではないとはいえ、平均は下回るような貸しアパートなのだから、騒がれると困るということは教えておかないといけない。

二人ともテーブルの下に大荷物を広げていて、しばらく居座る予定みたいだし。

 

(つづく)

物語なき世界から人々を救済する処方箋としての物語システム

要するに僕が提案したいのは、無限に続く空虚感、いわゆるニヒリズム的なものを克服しようとしたときに、もっと気楽な方法で出来ないかな?っていうことです。

 

まず空虚感と言ったときに何が欠落しているのかを考えるところからスタートするんですが、本当に欠いているのは意味というよりは因果だと思います。

例えば、僕の空虚は自然科学への絶望からスタートしていて、自然科学において因果というのは機構です。林檎が落ちるっていうイベントが起きて、これの解釈をする場合に、自然科学的には運動方程式に従って軌道を計算するんですけど、これを機構(一過性の現象の現れではなく、内部に何らかの仕組みを内臓するシステム)とみなすかどうかは最終的には個人の感覚によります。この感覚を失った場合には全てのイベントは完全に単一の時間軸上で進行する分離した現象群になって、「木を揺らすと林檎が落ちる傾向がある」っていう相関くらいは残るんですが、「木を揺らしたら林檎が落ちる」という因果は消滅します。

 

因果関係っていうのは、ある種の世界観、物語と言い換えることもできます。つまり、受動的には運動方程式が維持されている世界観、能動的には運動方程式を何者かが維持している物語です。本当に言い換えるだけなので別にどっちで呼んでもいいんですけど、物語呼ばわりをした方が、もっと広汎な虚無感を説明できる気がするのでこっちを推していきます。

 

例えば、最近話題の夫婦別姓問題とかも結局は物語の消滅じゃないですか。夫婦別姓問題の要点って、夫婦関係の個人化・矮小化による総体としての家系システムの崩壊ですよね。何故家系システムが当事者以外にとっても維持されなければいけないのか?(うちはうち、よそはよそではどうしていけないのか?)ということを考えたときに、物語が消滅してしまうからという理解が一番腑に落ちます。

とりあえず古典的な家族観を統一するためにNHKの朝ドラによくある、クソデカい木造住宅に四世代くらい住んでて皆でちゃぶ台を囲んでわちゃわちゃやってるみたいな家をイメージしてほしいんですけど、そういうタイプの旧家においては血縁は無限に継続するっていう大前提が生きているんですよね。個人が消滅=死亡しても家族は永続するっていうレゾンデートルのすりかえがキモで、どうやっても消滅してしまう個人に代わって家系は絶対物として君臨し、ひいては構成要素である個人に対しても永遠性を分け与える機能を持ちます。こういう世界観で生きてきた人は自分のレゾンデートルを家系システムに一部移譲しているわけですから、家系システムが刻む永遠の道程が中断されることになったら、つまり血縁の延長上にいる末裔たちが無限の一部としての家系を放棄し始めたら、システムと一緒に自分の存在も崩壊してしまいます。仮に今は自分の末裔がシステムの継続=夫婦同姓を選択していたとしても、家系システムのキモである永遠性っていうのは文字通り永遠に末裔たちがシステムを継続して初めて意味を持つわけですから、継続されない可能性が生まれるだけでも大問題です。

 

今まで物理学と夫婦別姓を例に挙げて物理的機構とレゾンデートルの二つについて物語の消滅というモデルを説明してきたんですが、前者が世界の物語、後者が個人の物語に対応していることは頭に置いといてください。世界の物語が担保されればその中でのロールを割り当てる形で個人の物語も作成できますし、その逆も然りなので厳密に切り分けられるわけではないんですけど。

 

ここまでが提起編、ここからが解決編です。

そういう無限に続く空虚に対しては無意味さを全て引き受けて生きろっていう思想(僕は永劫回帰がよくわからないのでそう言ってしまっていいのかわからないんですが、たぶん超人思想的なもの)がまずあって、僕もそれをやろうと思っていた時期があったんですけど、これは本当にきついです。というか、全く解決してないっていうことに気付きました。腹が減ったから食べ物が無くても生きられる人間になろうって異常者の発想ですよ。食べ物を探すのが正常な発想です。物語が消滅してしまったのであれば新しい物語を探しましょう(一応突っ込まれそうな部分を弁解しておくと、新しい物語を採用できる程度には深刻に虚無にトラップされていない必要はあります。が、別の見方として、本当は虚無からは抜け出せないとしても、スナック程度で物語を摘まむみたいなことも可能だと思うんですよね。米は無いけどブタメンはあるみたいな状態です)。

 

思い付いた物語パッケージを並べていきます。

 

例1)宗教

神性というチート要素を持っており、神が言ってたからというだけで全てのことが担保出来ます。結局、絶対性さえ獲得できればその絶対性に縋る形で色々なものを保障できるため、絶対性絡みのモデルというのは(下でもいくつか述べますが)物語を獲得する上でメジャーなものです。世界と個人の両翼をカバーしており隙の無い最強パッケージなんですが、日本では伝統的に影が薄いです。特に新宗教はオウムが暴れたせいで異常に肩身が狭いです。

 

例2)恋愛

要するに相手の中に絶対性を発見して絶対の存在=神である相手に存在を担保してもらう営みだと思うんですけど、合ってますか?僕は恋愛経験が無いので想像で書いてます。ちなみに、僕は精神科で「(君の対人能力の発達段階では)恋愛をするのは難しい」みたいなことを言われてしまったので利用できません。次に行きましょう。

 

例3)個人神

恋愛と宗教をチャンポンした上で個人化して自己完結したモデルです。具体的には、自分に信仰されるためだけの神を設計してその神に自分の存在を担保してもらいます。そんなのアリかよって感じもしますが、このモデルには有名な適用実績があって、神戸殺人の少年Aが作ったバモイドオキですね。というか、バモイドオキを見て個人神っていうモデルが可能なことに気付きました。人工精霊、いわゆるタルパとかもこれです。

 

例4)物理学

この辺は俺の空虚のルーツに深く絡んでいて語り始めたら止まらないので適当にしか書けないんですけど、神の数式みたいなやつです。本当に世界は神が作ったと思っている理論物理学者も結構いて、それはちょっと適用実績があるというだけで普通に宗教の一種だと思うんですけど、そもそも自然が現象ではなく機構であるというところで一つと、仮に機構だったとしても何故その機構でなければならなかったのかというところでもう一つで二つの信仰?から成り立ってますよね。物理神というのは。

 

例5)プログラム

デジタルデバイス上で実行されるプログラムには、デジタルデバイス上で実行されるというところにさえ目を瞑れば明らかに因果関係を設計する機能があるので、堅い物語を提供できる可能性があります。しかも自由度は無限大、むしろ何でもできるというのは神秘性を失って人の世界に落ちてしまう原因になるため、そのあたりの克服も問題です。ちなみに俺の学術的な専門分野はこの辺で、今どんどん発展している仮想現実技術(PlayStationVRとか)にデジタル宗教ソフトウェアみたいなものを捻じ込めないかな?って考えています。

 

例6)フィクション

物語ってフィクションじゃん。って感じなんですけど、ここで言っているのは映画小説とかエンターテイメントとしてのフィクションのことです。フィクションの中では色々な現象が意味を持っているわけで、世界に因果関係を提供するという目的とは噛み合っています。スターウォーズを見たからといって本気でフォースを使おうとする人間は流石にいないでしょうから、かなり気楽に、おやつ感覚で消費されるモデルです。ちなみに、上で話したプログラムともちょっと関連するんですけど、個人側から何らかのインターフェースを介して物語(世界内の因果系)にアクセスする機能を持っているタイプのフィクションは物語を提供する上では接続が滑らかで一段格上です。ゲームとか、アドリブ劇がそうですね。ディズニーランドもこの一種です。

 

例7)分裂病

見方によっては分裂病患者はある種の物語を既に獲得した人です。自己臭妄想とか被害妄想とかかなり不幸せな物語ではあるんですけど、心の底から因果関係を創造して保持しているという意味では、物語を与えるという目的には沿っています。分裂病の論文には、化学的な見地からではなく常軌を逸した因果(「隣に座っている男がくしゃみをしたのでその男は自分を監視している集団の一人である」など)がどうやって作られていくのかみたいな論理関係に注目して書かれているものもあるので、ワンチャン自分だけの因果関係=物語を入手する助けになると思います。

 

例8)麻薬

スティーブジョブズと違って僕はドラッグを使用したことがないので体験談を読むしかないのですが、薬物体験は超常体験と結び付いていることが多く、昔から宗教と麻薬の繋がりも深いです。他のモデルと違ってケミカルな力で直接脳内の論理回路に干渉できるので実効力に関しては随一と言ってもよいモデルです。法的なリスクをとりあえず無視しても健康に対するリスクがかなりヤバいので最後の手段って感じですね。

 

例9)萌え

もっと正確に言うと、萌えというよりは萌えコンテンツの中の美少女です。絶対性モデルに分類されるもので、勘違いしないでほしいんですけど、美少女の役割は恋人よりもまず神です。「オタクアニメにいくら美少女が出てきても結局どっかのおっさんが作ってるんだぞ 目を覚ませ」っていう批難?に対する反論を行うのが一番わかりやすく言いたいことを伝えられると思うんですが、オタク作品に存在する美少女はイデア界に存在する純粋な神で、作者がやっているのは精々その射影を現世に写し取る程度のことです。宗教で言うと、美少女が神、作者のおっさんが預言者、ファンが信徒、コンテンツが聖書です。特にギャルゲーでは直接的に美少女がプレイヤーを救済することも出来ます。このとき、ゲームはインターフェースに過ぎず、実際に行われるのは神との直接対話です。

 

そんな感じです。他にもあったら教えてください。

 

途中で少し話した二つの対立軸に注目して図も作ってみました。

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横軸が確信の強さを表しており、右に行くと信仰・全霊・徹底、左に行くと娯楽・部分・余裕です。宗教はガチで信じる人が多いので右の方にありますが、2001年宇宙の旅とかをガチで信じる人はあんまりいないのでフィクションは左の方みたいな感じです。軸名の日本語が微妙なんですけど、個人の中に食い込む度合いというイメージで単語をチョイスしました。

縦軸が普及度を表しており、上に行くと自慰・独占・秘匿、下に行くと公開・共有・通説です。分裂病は個人の中で完結していて物語=妄想を共有することがないので上の方、対して物理学は相当な人数が同じ物語=方程式を共有しているので下の方にあります。

念のため、English Versionも用意しました。

 

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おわりです。

一貫性について

一貫性とは、goo辞書曰く「始めから終わりまで同じ一つの方針・考えによっていること」であり、辞書を見る前に俺が書いた説明によれば「何か一つあるものが変わらないという性質」である。まあ、人によって理解が著しく異なるタイプの言葉ではない。誰に聞いても同じようなことを言う。

わざわざ一つの方針によるとか変わらないとか宣言するからには、逆に言うと、変わる可能性がある、可変性のものに対してのみ適用出来ることを意味する。例えば、1+1は誰が見ても2なので(頭のおかしい数学者は自明にはわからないらしいが常識的な範囲で)、数字の足し合わせなる行動に関して一貫性を伴うことは出来ない。
また、変化、つまりAがBに変わるというのは、最低でも対象が二つ、AとBがあって初めて成立する差分的な概念である。「同じ」だとか「不変」についても同様で、AがAと同じ、変わらないというのは、前のAと後のAがあるからわかることで、ただ一つのイベントにのみ注目してもそれが同じであるかどうかはわからない。つまり、不変という意味での一貫性は単一性を示す一方で、表れとしてはむしろ反復と結合する。同一の事象複数回生起するという構造が肝であるわけだ。
この構造の理解を踏まえると、数学的には一貫性はx=aに対応する。つまり、ある決定を空間上の点として、その決定が含む要素を数に分解したものを成分として考えると、ある軸xの成分が定数aに確定していることである。

少し具体的に書く。
ある日俺は午前1時くらいに腹が減ってコンビニに行った。店内を一回りして品揃えを見る。
・おにぎり(100円、150cal)
・アイス(100円、400cal)

・菓子パン(150円、150cal)

・惣菜パン(150円、150cal)
こんな感じだ。甘くないものが食べたい気分だったし、カロリーが気になるので、アイスはあまり食べる気がしない。菓子パンもちょっと。残るはおにぎりと惣菜パンだが、特にパンの方が良い理由も見つからないので、値段は安い方がいいだろう。その日俺はおにぎりを買って帰ることにした。
次の日もまた、同じくらいの時間に同じように腹が減ってきたので、同じコンビニに来た。今日は甘いものが食べたい気分である。最も甘いアイスは魅力的だが、しかし深夜に400calというのはあまりにも重すぎる。高い金額で安いカロリーの商品を買うというのは妙な気分だが、今日は菓子パンを買うことにしよう。
さて、この二日間の決定について、評価の軸は値段、甘さ、カロリーの3つがあった。
・一日目:おにぎり「値段:安い、甘さ:甘くない、カロリー:低い」
・二日目:菓子パン「値段:高い、甘さ:甘い、カロリー:低い」
という具合である。値段と甘さについてはふらふらと変わっている一方、カロリーについては一貫して低いものを選択しており、俺はカロリーが低いものを好む一貫性があると言える。評価をグラフの軸のようにみなせばカロリー=低い、数値化すれば「カロリーを好む度=0」とかそんな感じだ。こうして、決定は三次元空間上の点とみなせる。

複数の成分に関して一貫性を持っている場合はx=aかつy=bとなり、この連立方程式は三次元空間内では直線である。更に、成分が幅を持っている場合もある。つまり、評価が「これ」と確定しているわけではなく、「まあ、だいたいこのくらい」というアバウトなものである場合は、x=aではなくa≦x≦bとしてやればよい。この場合も方程式が満たす領域が可能な決定を支配する。
(一般には決定がN個の要素を持つときN次元空間上の点であり、許容される領域は超平面や超立体になる。)

ここまでは総武線が御茶ノ水から四ツ谷まで走るくらいの時間で考えたことで、大して重要ではなく、本題としては何故一貫性を持たねばならないのかということを俺は考えたいわけだが、理由ではなく結果であるならば、人が一貫性を求めるというのは心理学的に有名な話だ。例えば、試食を食った客が商品も買う(という例がwikipedia「一貫性の原理」の項目に載っていたが、これは一貫性というよりはトレードオフを愛する性質とか見栄を張りたがる性質に由来しているように感じる)ように、一貫性に従って行動しているということ自体が選択を肯定する。
たまたま最近読んだ「ファスト&スロー」とかいう本には脳の刹那的な判断を担当する部分が一貫性を愛していて、何故なら原初の時代を生き抜くにあたってそれが有効な方策だったからである(同じ季節に同じ場所に同じ実がなるという一貫性を発見して利用出来た猿は、それを理解出来なかった猿よりも生き残りやすいだろう)……というようなことが書かれていた。そういう本能的な、出生時から存在していた身も蓋も無い一面はあるだろうが、それは最初の最初、原因を辿る潮流の中では湧き出しの部分に相当するに過ぎない。湧き出した理由のカスケードが何事もなく個人の中に流れ落ち、ただちに一貫性を愛する性質として定着したようには思われず、流れは途中で滝壺のように溜まり、そこから新たな流れを作るかのように振る舞っているような気がする。大元は同じ場所だとしても、下って行けばいくつかに分岐して、それ自体説得力を持つ中継所、つまり段階の低い根拠が分岐先に存在する……ような気がする。
本当はここから先をダラダラ書いていたのだが、書いているうちに当たり前過ぎて馬鹿馬鹿しくなったので結論だけ言うと(中継所の話も放棄する。そこで述べて削除したのは要するに一貫性があると社会生活上利便性が高いというだけだ)、一貫性を愛する理由には人間の本能よりも更に高層のステージがあり、それは自然科学の再現性である。自然科学の再現性とは、完全に同じ条件で完全に同じ試行を行えば完全に同じ結果が出るという、物理学では無前提で適用される基本法則である。昨日投げたボールと明日投げるボールは同じように飛ぶ。誰でも知っている法則であり、明らかに一貫性の一種である。世界が自然科学の再現性という一貫性を持っているから世界の住人は逆に一貫性を世界と結び付け、愛するようになったというわけだ。
いかにも理系の人間らしい場所に着地してしまった。神の数式(笑)

更新予定コンテンツ

大日本帝国憲法です。

更新をしないままだいぶ日にちが空いてしまいました。

毎週更新とか毎月更新とかいうことを公に掲げているわけではないですが、心の内で密かに思っている、このくらいの頻度で更新したいなあという目標も特に無いです。しかし、更新を試みる頻度自体は皆さんが仮に推測したとして推しはかるそれよりは確実に高く、要するにさあ更新するぞと文章を書き始めてもなかなか綺麗にまとまらずに頓挫する顛末であることが多いのです。更新予定として下書きのまま溜まっている記事タイトルと、概要は以下の通りです。

 

・世代間倫理と死生観

時間的にマクロなスケールの環境問題が取沙汰されるにあたって必ず「世代間倫理」という概念が顔を出しますが、この概念は行為者(あるいは、全人類)の死後について織り込んでいる点で死生観と密接に結びついていると言えるでしょう。世代間倫理の前提を成す死生観と、それに伴って共有された、共有されているであろう意識について考察します。

・暴力の正当性

例えば誰かと何かの交渉を行うとして、仮に完全な意思疎通が可能であったとしても、論理的な公理系を何一つ共有していなければ、それを締結することは不可能です。しかし、そのようなシチュエーションでもコミュニケーションを実現する方策は存在し、それはすなわち暴力です。無前提で出現し、究極的な汎用性をもってあらゆる状況において適用出来る暴力の正当性について、論理という立場から考察します。

・善悪の妥協点

根本的に善悪とは相対的なもので、原始的で純粋なコミュニケーションにおいてそれらは存在しないと考える立場から、もっとも妥当と思われる妥協点としての善悪の定義を再発見し、その問題点や解決方法を模索します。

・自然科学の逆進性

体系化されたい自然科学は公理から「正しいこと」を導き出して説明するという営み、ひいてはそれを可能にする公理の発見を目指しています。とはいえ、絶対的に正しいものは公理ではなく今目の前で起きている現象そのものであるということは誰の目にも明らかであり、これを言葉の綾で済ませることなく、この因果関係の逆転からどのような問題が生まれるのかについて考察します。

・解釈と事象の境界線

何かを説明するために概念を新設することは自然な営みですが、そうした導入された概念のうち、本当に存在していたものと本当は存在していなかったものは何なのか、そもそもそれらを分けることは可能なのかということを考察します。例えば、「熱いものに触ると熱い」という現象と「温度」という解釈の間にある溝は何なのかとか、何かしらの同一の物体が集まっている様としての「○○○」が存在したとして、それに対して「3」という概念は実在していたのかということを考えます。

・物語的な世界への侵入経路

エッセイやノンフィクションの小説に綴られた現実的な体験を現実でしたとして、そこに小説を読み進めているときと全く同様な感覚が発生するかというと、あまりしないと思います。これを単なる主客の違いとして説明することは可能ですが、例えば主体性を維持しているはずのゲームでも、ひたすらにリアルな表現が追い求められたからといって「これは現実である」という意味での現実感が深まる感じはあまり無いのは興味深いことです(GTAの最新作か、適当なFPSを起動して、ただゆっくり歩いてみてください)。創作物全般の物語的な感覚は何処から発生しているのか、それを解明すれば今ここにある現実から物語的な世界に触れることは可能なのかということを考えます。

 

以上です。概要すら完成していないコンテンツはもっとあります。

問題提起としての概要に比べれば回答は個人の意見でしかないのでオマケみたいなものですし、今書いて結構満足してしまったので、フルバージョンがリリースされることは無いと思いますが、こういうことを書こうと思っていましたよということで、おわりです。